[#表紙(表紙.jpg)] 金城一紀 GO   名前ってなに?   バラと呼んでいる花を   別の名前にしてみても美しい香りはそのまま [#地付き]——『ロミオとジュリエット』シェイクスピア(小田島雄志訳) [#改ページ]     1 「ハワイか……」  オヤジが初めて僕の前で『ハワイ』という言葉を口にしたのは、僕が十四歳のお正月のことで、その時、テレビの画面では、美人女優三人がハワイに行き、ただひたすら「きれい! おいしい! きもちいい!」を連呼《れんこ》するお正月特番が映し出されていた。ちなみに、それまで、我が家ではハワイは『堕落《だらく》した資本主義の象徴』と呼ばれていた。  当時、オヤジは五十四歳で、朝鮮籍を持つ、いわゆる≪在日朝鮮人≫で、マルクスを信奉する共産主義者だった——。  ここでまず断っておきたいのだけれど、これは僕の恋愛に関する物語だ。その恋愛に、共産主義やら民主主義やら資本主義やら平和主義やら一点豪華主義やら菜食主義やら、とにかく、一切の『主義』は関わってこない。念のため。  さて、オヤジが『ハワイ』を口にした時、小さくガッツポーズをしたオフクロ(朝鮮籍)は、のちに僕にこう言った。 「あの人も歳にはかなわなかったのよ」  その年のお正月はものすごい寒波に襲われていて、五十を過ぎているオヤジの身にはかなり応《こた》えたらしく、やたらと「関節が……」と切なそうにつぶやきながら体をさすっていた。オヤジは温暖な気候を持つ韓国の済州島に生まれ、子供時代を過ごしていた。ちなみに、済州島は『東洋のハワイ』を自称している。  一方、日本で生まれ、日本で育ち、十九歳の時に御徒町《おかちまち》のアメ横でオヤジにナンパされて、二十歳で僕を生んだオフクロは、オヤジが転びかかっているのを見逃さず、素早く後ろに回り込み、でたらめに背中を押した。 「ベルリンの壁は崩れたし、ソ連ももうないのよ。この前テレビで言ってたけど、ソ連が崩壊したのは寒さが原因らしいわよ。寒さって、人の心を凍らせるのよ。主義も凍らせてしまうのよ……」  哀切のこもった口調だった。そのまま続けていたら『ドナドナ』でも歌い出しそうな勢いだった。  うつむき加減でオフクロの言葉を聞いていたオヤジが顔を上げ、テレビの画面に視線を戻した時、いつの間にか水着姿になっていた美人女優たちが、オヤジにとろけそうな笑顔を向けながら、「アロハ!!!」と呼びかけた。 「アロハ……」  断末魔《だんまつま》のつぶやきだった。オヤジは深く、長いため息をつき、そして、転んだ。  転んで、起き上がったあとのオヤジの動作は機敏で迅速《じんそく》だった。お正月休みが終わってすぐ、ハワイに行くために朝鮮籍から韓国籍に変える手続きを始めた。  説明が必要だと思う。どうして韓国の済州島に生まれたオヤジが朝鮮籍で、どうしてハワイに行くためには国籍を韓国籍に変えなくてはいけないのか。つまらない話なので、なるべく長くならないように説明しようと思う。できればユーモアも交えたいのだけれど、ちょっと難しいかもしれない。  子供の頃——戦時中のことだ——オヤジは≪日本人≫だった。理由は簡単。むかし、朝鮮(韓国)は日本の植民地だったから。日本国籍と日本名と日本語を押しつけられたオヤジは、大きくなったら≪天皇陛下≫のために戦う兵士になるはずだった。両親が日本の軍需工場に徴用《ちようよう》されたので、オヤジは子供の頃に両親と一緒に日本に渡ってきた。戦争が終わり、日本が敗《ま》けると、オヤジは≪日本人≫ではなくなった。ついでに日本政府から「用がなくなったから出てけ」なんて身勝手なことを言われてあたふたしているうちに、いつの間にか朝鮮半島がソ連とアメリカの思惑で、北朝鮮と韓国のふたつの国に割れていた。日本にいてもいいけど、どちらかの国籍を選べ、と迫られたオヤジは朝鮮籍を選ぶことにした。理由は、北朝鮮が貧乏人に優しい≪はずの≫マルクス主義を掲げていることと、日本にいる≪朝鮮人(韓国人)≫に対して韓国政府より気遣《きづか》ってくれたから。そんなわけで、オヤジは朝鮮籍を持つ、いわゆる≪在日朝鮮人≫になった。  若くしてふたつ目の国籍を持ったオヤジは歳を取り、ハワイのためにみっつ目の国籍取得に乗り出した。理由は簡単。北朝鮮はアメリカと国交がなくて、ビザが下りないからだ。ちなみに、北朝鮮が国交を結んでいる国が極端に少ないせいで、≪在日朝鮮人≫の旅行先も、かなりの狭さに限られてしまう。最近では相当時間をかければ国交を結んでいない国のビザも下りないこともないらしいけれど、どれだけの時間がかかるか予測が立てられないし、手続きがやたらと面倒臭いのだ。  オヤジは国籍取得のために、まず『民団』の幹部に働きかけた。ここでまたつまらない説明。これも面白く話せるかどうか……。  日本には『総連』と『民団』という、北朝鮮と韓国の事実上の出先機関があって、原則的に朝鮮籍の≪在日朝鮮人≫は総連に、韓国籍の≪在日韓国人≫は民団に群れ集《つど》うようになっている。ふたつの機関は北朝鮮と韓国の関係を否応《いやおう》なく反映するわけで、だから、総連と民団も『ロミオとジュリエット』のモンタギューとキャピュレットの両家のように、時々|小競《こぜ》り合いなんかをしながら、つかず離れずで反目し合っている。ところで、『ロミオとジュリエット』の結末は知っている?  むかし、オヤジは総連のバリバリの活動員だった。仲間である≪在日朝鮮人≫の権利獲得のため、仕事の合間に必死に活動した。健全な組織運営のため、と言われたので、多くの、本当に多くのお金も寄付をした。でも、報われることはなかった。詳しいことは書かないけれど、簡単に言えば、総連の目はいつも北朝鮮に向いていて、≪在日朝鮮人≫にはきちんと向いていなかったことに、長い活動を通してオヤジは気づいたのだ。そして、北朝鮮と総連に失望を感じている時、オヤジはハワイの引力に吸い寄せられた。  オヤジが韓国の国籍取得のためにまずやったことは、知り合いの民団の幹部に相談をすることだった。その民団の幹部は、オヤジが総連の活動をまだバリバリやっている頃に、「我々のスパイになってくれないか」という、なかなかスリリングな話を持ちかけてきた奴だった。もちろん、オヤジは断った≪らしい≫。  韓国の国籍を取得するためには、韓国大使館に行き、正規の手続きをして申請が下りるのを待てばいいのだけれど、申請が下りるためにかかる時間は人によってまちまちだった。総連の活動をバリバリやっていたような「敵性」を持つ人間、しかもマルクス主義者に申請が下りるまでにどれだけの時間がかかるか、そもそも下りるかどうかもオヤジにとっては不安だったに違いない。  民団の幹部の根回しのおかげで、申請はなんの問題もなく、たったの二ヵ月で下りた。総連の活動をバリバリやっていた人間(しかもマルクス主義者)に申請が下りた中では、最短記録ではないだろうか。オヤジは何をしたのか? 簡単だ。民団の幹部に賄賂《わいろ》を払ったのだ。多くの、本当に多くのお金を。  こうしてオヤジは見事な手際でみっつ目の国籍を手にした。でも、ちっとも嬉《うれ》しそうではなかった。時々、冗談めかして、僕に言った。 「国籍は金で買えるぞ。おまえはどこの国を買いたい?」  さて、こうしてあとは夢のハワイに飛ぶだけになったはずのオヤジだったが、最後にやっておかなくてはならないことがあった。北朝鮮にいる実の弟にトラックを送るのだ。  ここで、最後のつまらない説明。これは面白くしようがない、どうやっても。  オヤジには、子供の頃に一緒に日本に渡ってきた、ふたつ年下の弟がいて、つまり、僕の叔父《おじ》さんなのだけれど、その叔父さんは一九五〇年代の終わりから始まった北朝鮮への≪帰国運動≫というやつで、日本から北朝鮮に渡っていった。その≪帰国運動≫っていうのは、北朝鮮が『地上の楽園』で素晴らしい場所だから、日本で虐《しいた》げられている≪在日朝鮮人≫の方々よ一緒にこっちで頑張ろう、おいでませ、という運動だった。だいたい「運動」って単語がつくものにロクなものはなくて、当時の≪在日朝鮮人≫の人たちも薄々それに気づいていたらしいのだが、日本での差別と貧乏よりかはましかもしれない、と多くの人たちが北朝鮮に渡っていった。その中に、僕の叔父さんもいたというわけだ。  むかし、初めて届いた叔父さんから僕|宛《あ》ての手紙には、綺麗《きれい》な字の日本語で、こんなことが書かれていた。 『ペニシリンと、カシオのデジタル時計をできるだけ多く送ってください。どうか、どうかお願いします』  唐突に韓国籍に変え、結果的に総連を裏切ることになったオヤジは、北朝鮮にいる叔父さんが気になって仕方がなかったのだろう。オヤジは一度も北朝鮮に行ったことはなく、国籍を変えたことでこれからも行けることはほとんどなくなってしまった。つまり、叔父さんと会えなくなるということだった。そして、二人とも、もう若くはなかった。  オヤジは多くの、本当に多くのお金を工面《くめん》して、3|t《トン》トラックを買い、叔父さんに送った。いつかの叔父さんからの手紙に、トラックを持っていたら町内会長のようなものになれる、と書いてあったからだ。トラックと一緒に、手紙も添えた。韓国籍に変えた、と書いた手紙を。それ以来、叔父さんから手紙は来なくなった。  僕が中三に上がってすぐの頃、オヤジはオフクロ(韓国籍)と一緒にハワイに飛んだ。  アロハ。  うちの玄関にはいま、首にハイビスカスのレイをかけ、腰みのをつけた小麦色の肌の可愛い女の子にほっぺにキスをされて、こぼれ落ちそうな笑みを浮かべながらピースサインをしているオヤジの大きな写真が、額に入って飾られている。ちなみに、ピースは両手のダブル・ピース。  クソオヤジめ。  僕?  ようやく僕の話ができる。これはオヤジでもオフクロでもなく、僕の物語だ。  僕はハワイには行かなかった。  どうしてかって?  朝鮮籍を持つ両親の子供に生まれた僕は、気がついたら朝鮮籍を持つ≪在日朝鮮人≫で、物心ついた頃からハワイを『堕落した資本主義の象徴』と教えられ、背表紙にマルクスとかレーニンとかトロツキーとかチェ・ゲバラなんて名前が記された本に囲まれて育ち、気がついたら学校は総連が経営する民族学校、いわゆる『朝鮮学校』に通い、そこでアメリカのことを純粋な敵国として教えられていた。  だからといって、僕が共産主義思想にかぶれていたわけではなかった。北朝鮮もマルクスも総連も朝鮮学校もアメリカも知ったこっちゃなかった。僕は選択しようのない環境に応じて、ただ生きてきただけだった。でも、わけの分からない環境だったので、当然のようにヒネクレ者の悪ガキに育った。ならないほうがおかしいと思わないかい?  立派なヒネクレ者の悪ガキに育った僕は、韓国籍に変える時にも、オヤジに反抗した。別に国籍を変えることにたいした拘《こだ》わりはなかったのだけれど、ちょっとやそっとのことで転ぶつもりはなかった。  中二の春休みが終わろうとしていたある日、僕はオヤジにむりやり車に乗せられた。行き先を訊《き》いてもオヤジは答えず、ただ黙って車を都内から神奈川のほうに向けて走らせていた。  こ、殺されるかも……。  僕はそう思った。  オヤジは日本ランキングにも入ったことのあるライト級の元プロボクサーで、基本的に口より先に手が出るタイプの人間だった。悪ガキだった僕は、何度か警察に捕まるような悪さをして、オヤジから三回ほど半殺しの目に遭《あ》わされていた。  どうやって車から飛び出して逃げようかと作戦を練っているうちに、車は目的地に着いてしまった。湘南《しようなん》の辻堂《つじどう》海岸だった。 「ついてこい」  海岸沿いの道路に車を駐《と》めたあと、オヤジはそう言って、海岸のほうへ歩いていった。僕の頭の中に一瞬、海に顔を押しつけられ、苦しみながら溺《おぼ》れ死んでいく自分の映像が浮かんだけれど、オヤジの背中に殺気が感じられなかったので、とりあえず様子を見ながらついていくことにした。  オヤジは僕に構わずさっさと歩いて砂浜に入っていき、海岸のほぼ真ん中にどっかりと座って、海を眺め始めた。僕はオヤジのリーチが届かない距離を正確に目測した場所に腰を下ろした。ちゃんと右隣に座った。オヤジはサウスポーだった。  夕暮れが迫る春先の海を、オヤジはただ黙ってボーッと眺めていた。僕は、ゴールデンレトリバーを連れて散歩に来た女子高生らしい女の子のことを見ていた。なかなか可愛い子で、僕と視線が合った時に、うふ、って感じで笑った。僕も、うふ、って感じで笑おうかと思った時、顔の左側に殺気を感じた。僕は自分の不覚を呪《のろ》った。オヤジの手がいつの間にか僕の頭に伸びていた。「こ、殺される!」と思った瞬間、オヤジがコツンという感じで僕の頭を殴《なぐ》った。 「しっかり見てろ」  命拾いをした僕は、とりあえずオヤジの言う通り、海に視線を戻した。それから何分か経《た》って、オヤジは、もっと綺麗な海のほうが良かったんだけどな、と独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやいたあと、視線を僕に向け、ジッと見つめた。恐かった。ものすごく真剣な目だった。ボクサー時代に刻まれた、五センチほどの右の目尻《めじり》の傷がちょっと赤くなっていた。  僕が、うふ、って感じで笑って、なんとかその場を和《なご》ませようかと思った時、オヤジがはっきりとした声で言った。 「広い世界を見ろよ……。あとは自分で決めろ」  ただそれだけだった。オヤジはそう言ったあと、さっさと腰を上げ、砂浜を出ていってしまった。  なんてクサイことをするんだろう、とは思わなかった。僕はヒネクレ者だったけれど、同時にロマンチストでもあったのだ。『広い世界』と言われて、血が騒いでしまったのだった。  僕はしばらくのあいだ、砂浜に座って海を見続けた。海は広くて大きいのだった。月が昇るし日が沈むのだった。海にお船を浮かばせて、行ってみたいな他所《よそ》の国……。  そんなわけで、僕は転んだ。オヤジのクサイやり方にまんまとハマったこともあるけれど、それだけが理由ではなかった。ずっと選択しようのない環境に閉じ込められてきた僕にとって、それは初めて与えられた選択肢だったのだ。北朝鮮か、韓国か。恐ろしく狭い範囲の選択ではあったけれど、僕には選ぶ権利があった。僕は初めてきちんと人間として扱われたような気がしたのだった。  韓国籍に変えることは承諾したが、ハワイに行くことは拒否した。その代わり、ハワイにかかるはずだった旅費を、違うことに遣わせて欲しいと頼んだ。 「何に遣うんだ?」とオヤジは訊いた。  僕はきっぱりと答えた。 「日本の高校を受験する。そのために遣う」  いったん朝鮮学校に入った学生のほとんどは、そのままエスカレーターで民族系の高校、大学へと進むのが普通だった。 「どうしたんだ、急に?」とオヤジ。  僕はある日を境に、≪在日朝鮮人≫から≪在日韓国人≫に変わった。でも、僕自身は何も変わってなかった。変わらなかった。つまらなかった。いまや僕の目の前には無数の選択肢があった。そのことに気づいていた。  僕はまたきっぱりと答えた。 「広い世界を見るんだ」  オヤジは困ったような嬉しいような複雑な笑みを浮かべながら、「好きにしろ」と言った。  こうして僕は≪在日朝鮮人≫をやめ、ついでに民族学校という小さな円から脱け出て、『広い世界』へと飛び込む選択をした。でも、それはなかなか厳しい選択でもあったのだった——。  貧しい労働者家庭で生まれ育ったロックスター、ブルース・スプリングスティーンは、『BORN IN THE U.S.A.』でこんな風に歌っている。   生気のない街に生まれ落ち   ガキの頃から踏んだり蹴《け》ったり   しまいには、いつも折檻《せつかん》を食らってる犬みたいに   ビクビクしながら暮らすようになっちまう   俺はアメリカで生まれた   俺はアメリカで生まれた  きっと苦労したんだろう。  僕は、けっこう裕福な家庭で育ったけれど、スプリングスティーンの気持はよく分かる。僕が歌うなら、こうだ。   ちゃんとした国に生まれ落ちたつもりが   ガキの頃から殴ったり殴られたり   気を抜くと、いつも折檻を食らってる犬みたいに   ビクビクしながら暮らすようになっちまう   僕は日本で生まれた   僕は日本で生まれた  そう、  僕は、日本で、生まれた。 [#改ページ]     2  教室の前のドアが勢いよく開いた。  どうやっても一年坊にしか見えないクソガキが、外から、血走った目で教室の中を見回していた。始業式から一週間が経っていた。  クソガキと僕の目が合った。僕はクソガキの尖《とが》った視線を無視して、何事もなかったかのように、机の上に広げていた分子人類学の入門書に視線を戻した。クソガキが教室に足を踏み入れた。  昼休みのチャイムが鳴ってまだ間もなく、教室の中にはほとんどの生徒が残っていた。みんなはいっせいにポケットの中から小銭を取り出し、仲間同士で賭《か》けを始めた。  クソガキは教壇を通り抜け、教室の最後列に座っている僕に向かって着々と歩を進めていた。僕は入門書を閉じ、机の引き出しの中にしまった。でも、手は引き出しの中に入れたままにしておいた。  クソガキが僕の机の斜《なな》め前に立った。僕は相変わらず座ったままで、クソガキに見下ろされている。僕は視線を上げ、クソガキの顔を見つめた。クソガキは鼻で激しい息をしていた。ひどく緊張しているのだろう。徒競走のスタート前の小学生のように、顔が少し青くなっていた。ぐっと引き締めた唇《くちびる》も乾き切っている。  さっさと殴っちまえばいいのに。  僕はそう思った。実際、このままの体勢で向こうから殴りかかられたら、ほとんど勝ち目はなかった。でも、これまでどんな場合であれ、先に殴りかかってきた奴は一人もいなかった。ただの一人も。おかげで、これまでのところ僕は『二十三戦無敗の男』として校内に君臨《くんりん》していた。  クソガキの口が開きかかったので、僕が先に口を開いた。ワンパターンの差別の言葉は聞き飽きていた。 「おまえを有名にしてやる」  ビリー・ザ・キッドが銃を抜く時のセリフだ。  クソガキの口が開いたけれど、言葉は発せられず、浅い息だけが漏《も》れた。頭の上に「?」のマークが浮かんでいた。  僕は引き出しの中に入れてある、手の平サイズの灰皿を掴《つか》み、素早く手を引き出すのと同時に立ち上がった。灰皿を捕捉《ほそく》したクソガキの目に、瞬時に濃い怯《おび》えの色が浮かんだ。クソガキはなかなか速い動きで手を上げて防御の体勢を取ろうとしたが、僕のほうが速かった。とにかく、先に殴っておくべきだったのだ。  灰皿を、クソガキの左|眉《まゆ》の出っ張りの部分、正確に言えば、眼窩上隆起《がんかじようりゆうき》の部分に、擦《こす》るようにして叩《たた》きつけた。この部分は皮膚が薄くて切れやすい。ガスッ、という音がした。スイートスポットに当たった音だった。  クソガキは少しだけ後ろによろけながら、反射的に左手を眼窩上隆起に添えた。目の焦点がほとんど合ってない。パニックに陥《おちい》っていた。そこでとどめを刺しても良かったのだけれど、少しのあいだ、待った。ギャラリーによく見ておいてもらわなくては。  数秒後、クソガキの左手の指の隙間《すきま》から血が流れ出し始めた。血を流す人間の反応には、ふたつのパターンがあった。戦意を喪失するか、逆に興奮して戦意を高めるか。クソガキがどっちのタイプの人間か分からなかったし、不確実な賭けをするつもりもなかったので、さっそくとどめを刺すことにした。  体重を乗せた前|蹴《げ》りを、クソガキの右|膝《ひざ》の関節部分に叩き込んだ。クソガキはまわりの机にぶつかりながら横倒しになり、床の上に転がった。僕は自分の机を横にずらしてスペースを開けたあと、足下に倒れているクソガキの腹に連続して蹴りを入れた。ただし、爪先《つまさき》ではなく、足の甲で。爪先で蹴るのは加減の仕方が難しくて、下手をすると相手が内臓破裂を起こす危険があるし、それに音が鳴らない。足の甲だと加減の仕方が簡単で、うまく蹴るとパコンとかドスッという音が鳴るので、ギャラリーへの威嚇《いかく》効果も満点なのだ。  蹴りを止めた。クソガキは生まれ立ての赤ん坊のように体を丸めて、震えていた。なんだかひどく哀しくなった。こいつはむかし、祝福されて生まれてきた誰かの赤ん坊だったのだ。  僕は深呼吸をしたあと、自分の机を元の位置に戻した。灰皿を引き出しの中に収め、カバンの中からアドレナリン軟膏《なんこう》の小さな瓶を取り出し、クソガキの体に向かって放った。それを塗れば、血はすぐに止まる。本当は、こういった情けを見せるのはのちのちのためによくないのだ。ギャラリーの連中が、「杉原の奴が弱気になってる」なんて噂を流すに決まっていて、ここぞとばかりにクソガキのような奴が大勢僕に「挑戦」してくることになる。でも、大丈夫だろう。今回の『灰皿、血、蹴りの音』はけっこう派手なので、放課後には『煉瓦《れんが》、頭から出血、絶叫』あたりに話が大きくなっているはずだった。そこらへんに落ち着けば、夏休みに入るぐらいまではビビって誰も「挑戦」してこなくなる。  黒人解放運動の指導者、マルコム�はこんな風に言っている。 『私は自衛のための暴力を、暴力とは呼ばない。知性と呼ぶ』  マルコム�がそうだったように、僕も暴力は嫌いだ。でも、どうしようもない場合だってある。左の頬《ほお》を打たれたら、右の頬を差し出せ? 嫌だ。頬じゃなくて急所を打ってくる奴だっているのだ。そもそも、打たれるようなことは何もしてないっていうのに。  僕は相変わらず震えているクソガキの横を通って、教室の出口に向かった。ギャラリーの視線を痛いほどに感じる。出口の脇の机の上に、百円玉が三枚置かれていた。机のまわりを三人が囲んでいた。僕は立ち止まり、誰にともなく話し掛けた。 「どっちに賭けたんだよ?」  三人がいっせいに目を伏せた。僕は百円玉をすべて手に取り、教室を出た。教室を出てすぐに、あの三人に話し掛けたのが初めてだったことに気づいた。三年間も同じクラスにいるのに。  学食に着き、さっき手に入れた百円で牛乳を買った。イライラしている時はカルシウムの補給が一番なのだ。学食はかなり混んでいて、僕は八人掛けの長テーブルの、ひとつだけ空《あ》いている席を見つけ、そこに座った。僕が座るのとほとんど同時に、他の七人の会話が止んだ。いつものことなので、僕は別に気にもせずに、牛乳パックにストローを差し込んで、牛乳を飲んだ。  席に着いて三分後には、テーブルには誰もいなくなっていた。僕は、飲み終わって空《から》になった牛乳パックを、倒したり戻したりしながら時間を潰《つぶ》した。  牛乳パックが二十回目ぐらいに立ち直った時、向かいの席に加藤が座った。ニヤニヤした笑みが、顔に貼《は》りついている。 「レンチで頭叩き割ったんだって?」  どうやらいまの時点では煉瓦じゃなく、レンチになっているようだった。僕は首を横に振った。 「おまえの時と同じで灰皿だよ」  加藤は懐かしそうに目を細めたあと、筋が通り過ぎている鼻を愛《いと》しそうに、何度もさすった——。  僕が入学した高校は都内にある私立の男子高で、偏差値が卵の白身部分のカロリー数ぐらいしかない学校だった。でも、小中学校と民族教育を受けてきて、さらには一年足らずの受験勉強しかしなかった僕にとってみれば、東大に入学したのと同じぐらいの意味があった。  受験に合格し、入学式を二週間後に控えたある日、学校から呼び出しを受けた。応接室に通され、教頭と一年の学年主任に、「色々と問題が生じる恐れがあるから、本名ではなく、通称名で通学して欲しい」と頼まれた。要するに、僕が韓国の名前で通うと、ひどいイジメなどに遭う可能性があるので、日本の名前を使って素性《すじよう》を隠して欲しいというわけだ。 「僕は祖先から代々受け継がれてきた民族名に誇りを持っています。その名前を隠すことは誇りを捨てることと同じです。だから、受け入れられません」  なんて鬱陶《うつとう》しいことは言わなかった。僕は素直に提案を受け入れた。どうしてかって? 日本の高校に進学することを表明して以降、僕は民族学校で教師たちからひどいイジメに遭った。ある教師からは≪民族反逆者≫と呼ばれた。要するに、≪裏切り者≫ということだ。もっとひどいことも言われたけれど、それはのちのち話そうと思う。  そんなわけで、≪民族反逆者≫となった僕は、とことん僕が属している『民族』に反逆してやるつもりだった。でも、日本の名前で通うとしても、自分が≪在日韓国人≫であるのを隠すつもりはなかった。ことさらひけらかすつもりもなかったけれど。  そう、僕はひけらかすつもりはなかった。でも、さすがに偏差値の低い学校だけあって、教師の偏差値も低いらしく、生徒名簿に、僕の通称名である『杉原』と並べて、『朝鮮』という文字が入っている僕の出身中学の名前をそのまま載せてしまったのだった。  入学式の三日後、初めての「挑戦者」が僕の前に現われた。むかしから、朝鮮学校といえば、「猛者《もさ》の集まる、恐ろしく排他的な空手道場」のような目で見られていると思う。流儀はもちろん、フルコンタクト。当然ながら、それはイメージであって、朝鮮学校にも、草原で日がな一日ひなげしの首飾りを編んでいるような心優しい奴もいる。逆に、激流でヒグマとシャケを奪い合うのを無上の喜びとしているような凶暴な奴もいる。両者の割合は日本学校でもたいして変わりないと思うのだけれど、残念なことに、朝鮮学校の後者には、「差別」という身がたっぷりのシャケが与えられてしまうのだ。そいつは、シャケを食べ続け、どんどん体を大きくしていき、さらに凶暴になっていく。そして、そいつの恐ろしいイメージが日本人の中に植えつけられ、『朝鮮人』の平均像として定着してしまう。  まあ要するに、日本学校の不良たちにとってみれば、僕は『朝鮮人』と書かれた空手道場の看板なのだ。道場破りよろしく、僕を倒してそれを手にすれば、仲間にいい顔ができる。恐ろしく次元の低い話だけれど、僕は次元の低い高校に通っているから仕方がない。でも、僕はその次元の低さが嫌いじゃない。勝つか負けるか。分かりやすい。理屈じゃない。  初めての「挑戦者」は加藤だった。加藤は、ある広域指定暴力団の幹部組員の父親を持つ、生粋《きつすい》の悪ガキだった。僕も初陣《ういじん》だけあって気合いが入っていたから、灰皿を使って加藤の鼻を折ってやった。勝負は呆気《あつけ》なく決まったが、父親のバックがあったので、のちのち面倒臭いことになるのが心配だった。取り越し苦労だった。加藤は鼻の治療をきっかけに、それまで気に入ってなかった鼻の形を、思い切って整形手術で直すことに決めた。  久し振りに僕の前に顔を出した加藤は、すっかり形の良くなった鼻をさすりながら、「おまえには感謝してるよ」と言って、照れ笑いを浮かべた。親父さんも喜んでいたようで、「うちの奴の男前を上げてくれた」と、一度銀座の高級レストランでの晩御飯に招待してくれた。加藤の親父さんの左手には、小指がなかった。  加藤は、高校でできた初めての友人になった。そして、いまのところ、僕が友人と呼べる唯一の存在だった。  鼻をさするのをやめた加藤が、思い出したように言った。 「今日、俺の誕生日なんだよ」 「何もやらねえぞ」 「初めから期待してねえよ」  加藤はそう言って、学生服のポケットから、細長い紙切れを取り出し、僕に手渡した。 「俺の誕生パーティーのチケットだよ」 「パーティーって柄じゃねえだろ」 「親父が金を出してくれるっていうからさ」 「それで、これをいくらでさばいてんだよ?」  加藤は、へへへ、と笑い、企業秘密だ、と言った。僕は、気が向いたら行くよ、と言いながら、チケットをポケットにしまった。 「可愛い女も大勢来るから、楽しめると思うぜ」加藤はそう言って席を立ったけれど、チッと舌打ちをして言い足した。「忘れてた。うちの親父が家に遊びに来いって言ってた」 「イヤだ」と僕は言った。「ヤクザは嫌いなんだよ。弱い者イジメをするから」  加藤はいまにも泣き出しそうな顔を作り、「差別しないでくれよ。うちの親父も必死に生きてんだよ。それに、うちの親父、おまえのことすげえ気に入ってんだぜ。いつも、あいつはすごい男になる、って言ってる」 「分かったよ、考えとくよ」と僕は答えた。  加藤はホッとしたような表情を浮かべ、じゃあな、と言い、テーブルのそばを離れた。僕は加藤の背中に声を掛けた。 「親父さんによろしくな」  振り返った加藤は、とても嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》み、おう、という感じで手を上げた。  放課後。  つるんで遊ぶ友人もいないし、去年まで所属していたバスケ部はあることがきっかけで強制退部になっていたから、家に帰るしかなかった。まっすぐ帰るのも嫌だったので、本屋に道草して人類学とか考古学の本を立ち読みした。その中の一冊を買って、家に帰った。  家に着いて、牛乳を飲もうとダイニングに入って行くと、オヤジが難しい顔をして、腕組みをしながらテーブルに座っていた。家の中に、オフクロがいる気配はなかった。 「またかよ」僕は冷蔵庫の扉を開けながら、言った。 「あいつ、友達とプーケットに行きたいって言うんだ」とオヤジは拗《す》ねた口調で言った。 「行かせてやればいいじゃないか」 「最近、うちが苦しいのは知ってるだろ」とオヤジは吐《は》き捨てるように言った。  数年前まで、オヤジはパチンコの景品交換所を四軒営んでいた。でも、いまでは二軒に減っていた。減った理由はこんな感じだ。  ある日、警察がオヤジと取り引きをしているパチンコ店を訪れ、店主に、オヤジのことを、「ヤクザと深い関係を持っていて、儲《もう》けた金がヤクザの懐《ふところ》に入り、それが重大な資金源になっている」と告げる。ついでに、「そんな人間とつきあってるようじゃ、オタクに対しても厳しく目を光らせなくてはいけなくなる」とも言う。店主はオヤジがヤクザと深い関係なんて持ってないのを知っているけれど、国家権力に盾突《たてつ》くとどんなことになるのかもよく知っているので、言うことに従わざるを得ない。そして、オヤジは二十年来の取り引きをあっという間に切られ、新しい景品交換所は、警察のOBが営むことになる。景品交換業はけっこう実入《みい》りがいい商売だった。さすがに警察は「犬」と仇名《あだな》されるだけあり、嗅覚《きゆうかく》が発達していて、金の匂いをよく嗅《か》ぎつける。  立て続けに二軒の交換所を奪われた時、オフクロが「ずるい」とか「汚い」とか「許せない」とか「差別だ」とか、とにかく悔しい気持を言葉にしていると、 「あと二軒残ってるじゃないか。初めはゼロだったんだぞ。ゼロからスタートしたんだぞ。俺は算数は苦手だけど、どっちが多いかぐらいは分かるぞ」  オヤジはそう言って、ニカッと笑った。プロボクサー時代のオヤジは、全二十六戦の戦績中、一度もダウンを喫したことはなかった。ただの一度もマットに膝をつけたことはなかった。タフだったところからつけられたニックネームは『鉄筋コンクリート』。ちなみに、リングネームは『杉原秀吉』。豊臣秀吉の『秀吉』だ。ジムの会長に勝手につけられてしまったそうだ。当然、≪在日朝鮮人≫の仲間たちには評判が悪かった。  オヤジの笑顔に釣られて、オフクロもニコッと笑った。しばらくすると、細くなった目尻《めじり》から、涙がこぼれた。 「でも、悔しいよね……」  そのオフクロはいま、オヤジと喧嘩《けんか》をし、今年に入って三度目の家出をしているらしかった。交換所を奪われたことと、ハワイに行ったことで、オフクロは強くなった。朝鮮(韓国)は昔から儒教《じゆきよう》の色濃いお国柄で、その伝統は≪在日≫社会にも受け継がれていた。儒教は、乱暴に言ってしまえば、「目上の人間を敬《うやま》え」という思想だ。それが、家庭においては、「女子供は御主人様(父親)には決して逆らってはいけない」ということになる。  そんなわけで、ハワイに行くまで、うちではオヤジのおかずは僕とオフクロよりいつも二品多かった。ところが、ハワイから戻ってからは四品に増えた。ある日の晩御飯のあと、オヤジが出っ張り始めた腹をさすりながら、オフクロに訊《き》いた。 「最近、どうしておかずが増えてんだ?」  キッチンで洗い物をしていたオフクロは、にこやかに答えた。 「糖尿病になってくれないかな、って思って」  オヤジがいきなりのカウンターパンチを食らって度肝《どぎも》を抜かれているところへ、キッチンからテーブルに戻ってきたオフクロは、よいしょ、なんて言って椅子に座り、テーブルの端に置いてあった女性週刊誌を、テーブルの上に立てるようにして広げた。オヤジと僕の目には、表紙に載っている大きな活字がよーく見えた。 『暴力夫の夕食に砒素《ひそ》を入れ続けた鬼妻!』  女性週刊誌の背後にあるオフクロの顔には、ジャック・ニコルソンが浮かべるような笑みが貼りついていた。  こうして、儒教は敗北した。おかずの数は平等になり、それまでほとんど外に遊びに行くことを許されていなかったオフクロは、友達とよく映画やカラオケやエステに行くようになった。オフクロはまだ三十代だった。  僕は牛乳パックに口をつけて、ゴクゴクと牛乳を飲んだあと、オヤジに言った。 「うちが苦しいって言ったって、自分はしょっちゅうゴルフに行ってるじゃないか。会員権まで買っちゃってさ、説得力がないんだよな」  オヤジはハワイから帰ってきてすぐに、ゴルフを始めた。 「ゴルフは俺の人生におけるカンフル剤なんだよ」とオヤジは言い訳がましく言った。 「主婦にカンフル剤はいらないのかよ」 「だいたい女はだな——」  オヤジの言葉を遮《さえぎ》った。「北朝鮮も韓国も中国も、儒教が染み込んでる国はみんな頭打ちだよ。男だったり、ただ無駄に歳を食ってるからってえばれる時代は終わったんだよ、もう」  オヤジが殺気を放ち始めた。「ちょっとばかし学校でお勉強してるからって、俺に説教するつもりか?」  オヤジは戦中戦後の混乱のせいで、小学校しか出ていなかった。僕は急いで牛乳を冷蔵庫にしまい、ダイニングを出た。オヤジの声が追いかけてきた。 「晩飯、どうする!」  二階への階段を上がりながら、「レトルトのカレー!」と答えた。  自分の部屋に戻ってすぐ、子機を使ってオフクロの家出先に電話をした。オフクロの家出先はいつも決まっていて、焼肉屋を営んでいる友人のところだった。友人宅に電話をかけても出なかったので、店のほうにかけると、ちょうどオフクロが出た。オフクロは、いま仕込みの時間で忙しいのよね、と言って、続けた。 「あの人、どう?」 「今回は二週間ぐらいで落ちるんじゃないかな」 「二週間か……」 「大丈夫だよ。こっちはなんとかなるよ」 「悪いわね。晩御飯はこっちに食べにいらっしゃい。みんなもあんたに会いたがってるから」 「分かった。近いうちに行くよ」  電話を切ったあと、学生服を脱ぎ、下着姿のままベッドに寝転がった。下から、コツン、コツン、という音が聞こえてきた。オヤジがパッティングの練習を始めたのだ。オヤジは落ち込むことがあると、まるでそれが修業のように、延々とパッティングの練習を続ける。  コツン、コツン、コツン、コツン、コツン……。  憂鬱《ゆううつ》な雨垂れの音を聞いているような気がしてきた。空腹を感じたけれど、レトルトのカレーを食べたい気分ではなかった。僕はベッドから飛び起き、ハンガーにかかっている学生服のポケットから、加藤の誕生パーティーのチケットを取り出した。チケットの裏面を見ると、会場は六本木になっていた。好きな街じゃなかった。でも、家にいるよりはマシな気がしたので、出掛けることにした。  黒のタートルネック・セーターと、ブルーのジーンズを着た。居間に顔を出し、オヤジに、帰りは遅くなる、と告げた。オヤジはパッティングを続けたまま、悪さするなよ、と元気のない声で応《こた》えた。  コツン、コツン、コツン、コツン、コツン……。  一週間で落ちるかも。  家を出た。  山手線を恵比寿《えびす》で降り、日比谷《ひびや》線に乗り換えて六本木に出た。六本木通りをアマンドで折れ、外苑東通りをどんどん下って行き、虎《とら》ノ門《もん》とすれすれの場所まで向かった。  加藤の誕生パーティーの会場『Z』は、表通りからはかなり奥まった位置にあった。分厚くて重い木製のドアを開けると、薄暗い店内から、電子音のビートと煙草《たばこ》の煙とアルコールの匂いと人いきれの、一緒くたの洪水が流れ出てきた。どうにかひとつでもよけようとしたけれど、ダメだった。深呼吸をして表の空気を体の中に満たしたあと、店内に入った。 『Z』はロフト形式のクラブだった。一階部分がロフトで、地下がかなり広いフロアになっていた。ドアの脇に、同じ高校の竹下がいた。加藤といつもつるんでいる奴だ。竹下は手にチケットの束を持っていた。チケット係を押しつけられたらしい。竹下は僕の顔を見ると、大げさな驚きの表情を浮かべた。 「珍しいね」と竹下が言った。  僕は曖昧《あいまい》に頷《うなず》き、チケットを手渡した。フロア部分では、大勢の男女がビートに合わせて激しく踊っていた。ロフトを見渡すと、置いてあるテーブルのほとんどが塞《ふさ》がっていた。僕の視線を追っていた竹下が、「テーブル、空けようか?」と訊いた。僕が、「できるのか?」と訊き返すと、竹下は笑いながら肩をすくめ、ロフトの奥に向かった。三人掛けの丸テーブルに辿《たど》り着いた竹下が、座っているカップルに何事かを耳打ちした。カップルはすぐに渋々といった感じで腰を上げ、フロアに下りていった。  竹下が戻ってきて、指で作ったOKマークを僕に向けた。僕が、悪いな、と礼を言うと、竹下は真剣に驚きの表情を浮かべた。どうやら、高校での僕の評判はかなりの無法者として定着しているらしい。  壁際に置いてある丸テーブルに辿り着き、足の長いストゥールに腰を掛けた。隣のテーブルでは、向かい合ったカップルがものすごくディープなキスを3D感覚で繰り広げていた。見ていると恥ずかしくなってきたので、身を乗り出し、手摺《てすり》越しに下のフロアを眺めた。みんな、高い熱を発しながら、踊っていた。でも、時々隣の人間の動きを確認しながら、踊っていた。みんなの動きはどこか画一的だった。  フロアからロフトに繋《つな》がる階段を、どこか画一的ではない雰囲気を持つ男が上がってきていた。手にふたつのグラスを持って。 「よく来てくれたな」加藤はグラスをテーブルに置いて、ストゥールに腰を掛けた。「ウーロン茶で良かっただろ?」 「サンキュウ」と僕は礼を言った。  僕と加藤はグラスを持ち、カチンと縁をぶつけ合った。 「生まれてきて良かったな」僕はウーロン茶に軽く口をつけて、言った。  加藤は、へへへ、と恥ずかしそうに笑い、少しだけ目を伏《ふ》せた。そして、わざとらしく、「あ、そうだ」と言い、ポケットに手を入れ、小さなマッチ箱を取り出し、テーブルの上に置いた。 「なんだよ」と僕は訊いた。 「中にLが入ってる。もしよかったら、やってくれ」加藤はまだ少し恥ずかしそうに微笑みながら、そう言った。  僕は、目の前にいる男が愛《いと》しかった。無器用で、洗練された好意の示し方を知らなくて、そもそもそんなものを教わらずに育ってきて、でも、無邪気《むじやき》で本当に恥ずかしそうな微笑みを浮かべることができる、僕の目の前の男が。  僕はテーブルの上に載っている加藤の手の甲を、軽く握ったこぶしでコンコンと優しく叩いた。 「ありがたいけど、俺、ラリってる暇はねえんだよ。考えることがいっぱいあるんだ。それがなくなったら、その時は一緒に死ぬほどラリろうぜ」  加藤は僕の目をジッと覗《のぞ》き込み、何かを確かめたあと、ニコッと笑った。そして、小指を立て、「こっちのほうがいいか?」と訊いた。僕は笑いながら首を横に振り、「できれば、サンドイッチとか、フルーツとかそういうのがいい」と答えた。加藤は頷き、ストゥールから腰を上げた。僕はテーブルから離れていく加藤の背中に、「おい!」と声を掛け、振り向いた加藤にマッチ箱を放った。加藤は見事にキャッチして、両目をつぶってしまうウインクを僕に送った。  加藤がフロアに繋がる階段を下りているちょうどその時、入り口のドアがスッと開いた。加藤の動きを追っていた僕の視線は、まるでそれが当たり前のようにドアのほうに吸い寄せられた。  一人の女の子が店内に入ってきた。角度のせいで、僕には彼女の上半身しか見えなかった。彼女の髪は『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグのように短かった。僕は『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグが好きだった。瞳《ひとみ》は遠目《とおめ》でもはっきり分かるぐらいにつぶらで、『エイジ・オブ・イノセンス』のウィノナ・ライダーの瞳と同種の知性を湛《たた》えていた。僕は『エイジ・オブ・イノセンス』のウィノナ・ライダーが好きだった。  僕の視線がそのまま鼻、口へと下りていこうとするのを、彼女が拒否した。彼女は心ここにあらずといった感じで竹下にチケットを渡し、キョロキョロとフロアを見渡し始めた。僕は細かく動く彼女の顔の動きを追った。彼女に一人の男が近づいた。長髪で、色が黒くて、耳にピアスをぶら下げている、渋谷《しぶや》あたりで石を投げたら九十パーセントぐらいの確率で当たるような、クローン的な男だった。その男が、彼女の捜している相手と思った僕は、軽い失望を感じながら、ウーロン茶に口をつけた。  男が彼女に声を掛けた。彼女は男の意気をすべて奪い取り、クシャクシャに丸めて放り投げてしまうような冷たくて力強くて鋭い視線を、男に向けた。男は言葉を失い、恥ずかしそうに肩をすくめたあと、彼女のそばを離れていった。明らかに彼女のまわりにはある特殊な磁場《じば》が発生し始めていて、まわりの連中の視線はその磁力に吸い寄せられていた。僕もその一人だった。僕はウーロン茶のグラスを置き、彼女に強い視線を注いだ。  フロアに見切りをつけた彼女は、ロフトに視線を移した。彼女は、「コ」の字形に設置されているロフト部分の一方の端から、視線を注ぎ始めた。僕はもう一方の端にいた。彼女の真剣な眼差《まなざ》しが次々とテーブルに向けられ、見切りをつけられ、新しいテーブルへと移っていく。  ロフトには、かなりの数のテーブルがあった。彼女は、僕のふたつ前のテーブルあたりで、軽いため息をついた。目の光が少し落ちているようだった。彼女は、せっかくだからといった感じで残りのテーブルに視線をやり始めた。そして、僕のテーブル。  彼女の目の光が再び強くなった。強い視線が僕に注がれる。ついでに、彼女の視線を一緒に追っていたギャラリーの視線も。僕はたじろぎはしたものの、いつもの癖《くせ》が顔を出し、視線を向けている彼女を睨《にら》みつけた。不良用語で言えば、「ガンをつけた」。  不思議なことに、彼女の顔いっぱいにとても魅力的な笑みが広がった。ギャラリーの顔にも、会えて良かったねえ、といった感じの笑みが広がった。それで僕の顔にも笑みが広がり、ついでに抱き合いでもすれば最高のハッピーエンドといった雰囲気だったのだけれど、そうもいかなかった。僕は相変わらず彼女にガンをつけていた。彼女に、まったく見覚えがなかったのだ。  ストーリーの辻褄《つじつま》が合わないのを感じ始めたギャラリーの視線が、いま一度ヒロインの真意を確かめようと、視線をヒロインに戻すのとほとんど同時に、当のヒロインは立っていた場所から動き出し、弾むような足取りで僕のテーブルに近づいてきた。  彼女が近づいてくるのを見ていて、正直僕が思ったのは、彼女は僕がむかし叩きのめした男の妹で、いますぐにでもナイフを取り出し、「兄上の仇《かたき》!」なんて言いながら、僕に襲いかかってくるのでは、ということだった。  結局、彼女はナイフを取り出さないまま僕のテーブルに辿り着き、小さくジャンプして、ストゥールに飛び乗った。ストンという感じで着地すると、短めのタータン・チェックのプリーツ・スカートが一瞬フワッと浮き上がり、ふとももと下着が見えた。両方とも白かった。  鮮やかな白を網膜《もうまく》に残したまま視線を上に戻すと、彼女の力強い眼差しが待っていた。さっきのクローン男に向けられた視線を送られることを予想して、身構えた。でも、予想は外れた。  彼女は瞳に悪戯《いたずら》っぽい色を浮かべたあと、ヒラヒラと飛ぶ蝶《ちよう》でも追うように、ゆっくりと頭を左から右へと動かした。そして、正面に顔を向き直し、「どう?」といった感じで僕の目を覗き込んだ。僕が無言で「?」と答えると、今度はもっとゆっくり右から左へ頭を動かした。僕は一瞬、彼女はちょっとヤバイ女の子で、本当に蝶が見えてるのかもしれない、と思ったけれど、すぐにその考えを打ち消した。彼女は僕がこれまで見てきた女の子の中で、一番まともに見えた。  頭を動かし終えた彼女は、挑むように僕の目をジッと見た。残念ながら、いくらじっくり見させられたところで、彼女の顔に見覚えはなかった。僕が相変わらず無言で「?」を送っていると、彼女はがっかりしたように少しだけ肩を落とした。でも、次の瞬間にはまた悪戯っぽい色を瞳に浮かべ、テーブルの縁を両手で掴んでそこを支点にし、腰を振ってストゥールを小さく左右に回し始めた。そして、僕がとうとう口を開いて行動の真意を問おうとした時、彼女は体がねじれる限界の場所まで大きく右に腰を振っていったん動きを止め、パワーを十分にためたあと、反動をつけて左に腰を振ったのと同時に、テーブルから手を離した。ストゥールは勢い良く回転を始め、彼女の体も一緒に回り始めた。  僕の動体視力は、きちんと彼女のうなじと後頭部と背中のディテイルを捉《とら》えたけれど、そのどれにも見覚えはなかった。一回転の旅を終えた彼女は、「ねえねえ、すごかったでしょ?」といった感じの笑みを顔に浮かべていた。口からちょっとだけ舌が出ていた。僕がむかし飼っていた犬は赤ん坊の頃、いつも口からちょっとだけ舌を出しながら寝ていた。僕はそれを思い出した。彼女はとても可愛かった。  僕は訊いた。 「君、誰?」  彼女の顔から笑みが消え、諦《あきら》めの色が浮かび上がった。でも、その色はすぐに消えた。彼女が口を開いた。 「ねえ、サイコメトリングって知ってる?」  意志のこもった、きちんとした声だった。  僕は少しためらったあと、頷いた。サイコメトリングは、人に直接触れたり、その人物の所有物に触れることで、その人物に関係する過去や未来に関する情報を読み取れる超能力のはずだった。僕は『デッドゾーン』という映画が好きで、何度か観《み》直していたから、そのことを知っていた。  彼女は僕が頷いたのを見て、テーブルの上に置かれた僕の手の甲に、自分の手を添えた。彼女の指はとても細く、華奢《きやしや》で、でも、節《ふし》の部分がごつごつとしておらず、スッとまっすぐに伸びていた。彼女の人差し指が優しい動きで、僕の手の甲を滑《すべ》った。やがて指先が立ち、短い距離をこするようにしながら往復し始めた。 「いま、読み取ってるから」と彼女は優しい声で言った。  僕はただ黙って人差し指の動きを見ていた。人類が手を使い始めたのがいつなのかは知らないけれど、初めて手を使った人間に感謝したいような気持だった。  彼女が手を離した。また悪戯っぽい色が瞳に浮かぶ。 「バスケットをやってるでしょ?」  僕は素直に驚きを表わすことにした。 「どうして、分かった?」 「だから、サイコメトリングだって言ってるじゃない」  僕は少しのあいだ黙って彼女の顔を見つめ、言った。 「他に分かったことは?」 「人を何人か蹴ったことがある」  僕は彼女から視線を外し、まわりを見回した。ギャラリーの視線のほとんどはもう僕たちから離れていた。ドアのそばにいる竹下と視線が合った。竹下はものすごく大げさな驚きの表情を作った。加藤の姿を捜した。僕は彼女の出現が、加藤の仕組んだものだと確信していた。  タイミングよく、サンドイッチの載った皿を持った加藤が階段を上ってきていた。階段を上り切った加藤は、僕の目の前に女の子が座っているのを見て、眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を刻んだ。テーブルを回り込んで、彼女の顔を見た加藤の眉間から縦皺が消えた。その代わりに目尻に笑い皺が刻まれた。加藤は彼女に優しく笑い掛けたあと、うやうやしくサンドイッチの皿を置き、よく躾《しつけ》られたウェイターのように姿勢良くお辞儀をし終えて、テーブルから離れていった。 「知ってる人?」と彼女が訊いた。  彼女の目の色を見た。彼女が演技をしている様子はなかった。加藤も何かを仕組んでいるようには見えなかった。だとすると?  考えられるのは、彼女には僕の高校に知り合いがいて、そいつから僕の情報を得ている、ということだった。でも、彼女の知っている情報は、微妙に事実と食い違っていた。僕はバスケットを「やっている」ではなく、正確には「やっていた」だし、人を「何人か」ではなく、正確には「何十人か」蹴っていた。そもそも、たとえ彼女が知り合いから情報を得られたとしても、それを言いにわざわざ僕に近づいてくる理由が分からなかった。だいたい、僕の高校の連中なら、彼女にこう忠告するに違いなかった。 「あいつには近づくな」 「他に分かったことは?」  僕がさっきと同じ質問を繰り返すと、彼女は、そんなこともうどうでもいいじゃない、といった感じで微笑み、「今日はもうおしまい」と言って、続けた。 「ねえ、ここを出ない? 狭くて、窮屈《きゆうくつ》で、うるさくて、退屈だと思わない、ここ」  僕は真面目《まじめ》に訊いた。 「それも読み取ったの?」  彼女は謎めいた笑みを顔に漂わせて、言った。 「行きましょう」  彼女はストゥールから飛び降り、往《い》きと同じように弾むような足取りで、出口へ歩いていった。僕が絶対にあとをついていくのを確信しているのか、一度も後ろを振り返らなかった。その確信は正しかった。僕は彼女の磁力に引かれて、ストゥールから腰を上げた。でも、テーブルの上のサンドイッチも、かすかながらも磁力を発していて、僕のお腹《なか》に吸い込まれたがっているようだった。彼女の背中がどんどん遠ざかっていく。僕はサンドイッチに見切りをつけ、テーブルを離れた。  店のドアを開けたちょうどその時、『ハッピー・バースデイ』の合唱がフロアから始まり、瞬《またた》く間に店内すべてに伝染して大合唱になった。加藤のために歌が終わるまでいようかと思ったけれど、もうすでに店から十メートル近くは離れていた彼女が、爪先立ちで精一杯僕に手を振っているのを見て、僕はためらいを捨てた。ドアを閉じ、彼女に向かって、走った。  少しだけ悩んだあと、とりあえず東京タワーに向かって歩くことにした。道は選ばず、適当に。ライトアップされ、夜空に浮かび上がっている東京タワーはよい目印になった。  僕と彼女は、取り立てて言葉を交わさず、黙々と歩いた。でも、気詰まりな雰囲気《ふんいき》はなかった。時々、彼女が隣を歩いている僕の目を覗き込むことがあって、僕が照れ笑いを浮かべると、彼女は楽しそうに体当たりをしてきた。まるで手加減なく。むかし、テレビのニュースで、生まれたばかりのヒグマの赤ちゃんが、自分を映しているテレビカメラを珍しがり、カメラに思い切り体当たりしているのを見たことがあった。僕はそれを思い出した。彼女はとても可愛かった。彼女のことが知りたかった。  三十分近く歩いた頃、僕は切り出した。 「高校生?」  彼女は頷き、自分が通っている私立の共学校の名前を言った。有名な進学校だった。 「三年に上がったばっかり。あなたは二年、三年?」  どうして、「一年」は抜かすのだろう? 彼女は僕の何を知っているのだろう? 「僕も三年に上がったばっかり」  僕がそう言うと、彼女は理知的な感じのするおでこに皺を寄せた。 「『僕』ってなによ? 似合わないよ」  彼女は僕の何を知っているのだろう? 「通ってる高校は——」  僕が高校名を言うと、彼女は、知ってるよ、といった感じで得意気に眉を動かした。 「そのセーター、似合ってるよ」彼女が唐突に言った。「『大人は判ってくれない』の男の子みたい」  僕は『大人は判ってくれない』が大好きだった。彼女は濃いブルーのシャツの上に黒のニットベストを着ていた。胸の部分には、赤と白のアーガイル模様が編み込まれていた。とてもよく似合っていたので、僕もうまい誉《ほ》め言葉を差し出そうと捜したのだけれど、見つからなかった。仕方なく、「君もよく似合ってる」と言うと、彼女はまたおでこに皺を刻んだ。『君』がよくなかったのだろうか?  彼女が僕の少し先を歩き出した。機嫌を損《そこ》ねてしまったのかもしれない。僕は黙って彼女のあとをついていった。ただ、どうしても知りたいことがあった。まだ、彼女の名前を聞いていなかった。  彼女に追いつこうと、僕が足を速めたのとほとんど同時に、彼女が足を止めた。彼女に追いついた僕も足を止めた。彼女の顔は横を向いていた。彼女の視線を追った。小学校の正門があった。彼女は、どっしりといった感じで閉まっている、レール式の鉄扉《てつぴ》をジッと見ていた。鉄扉の高さは一・五メートルぐらいだった。鉄扉の向こうには、暗闇に覆《おお》われた校庭が広がっていた。  彼女の横顔に不敵な笑みが浮かんだ。僕は彼女の意図を察知して、「まずいんじゃないかな」と言った。彼女のおでこに「川」の字が浮かんだ。  彼女は僕に構わず、すたすたと鉄扉に歩いていき、縁に両手を掛け、思い切り反動をつけてジャンプをしたあと、片足を縁に掛けた。その足を少しずつずらしていって校内側に入れ、鉄扉を跨《また》ぐようにしてお尻を縁に乗せる。あとは歩道側に残っている足を校内側に入れれば、侵入は成功する。  彼女は馬にでも跨がっているように鉄扉の上に乗っかったまま、誇らしげに僕のほうを見た。僕は目を伏せた。スカートが足の付け根の部分までまくれ上がっていて、歩道側に残っている足が剥《む》き出しになっていたのだ。彼女が気にしている様子はまったくなかった。  ストン、という音が聞こえた。視線を上げると、彼女の頭が鉄扉の向こうにあった。ふたつのつぶらな瞳が、僕に訊いていた。  さあ、どうする?  僕は鉄扉に歩いていき、縁に両手を掛け、反動をつけてジャンプをし、うまい具合に両足を校内側に差し入れ、一気に鉄扉を飛び越えた。彼女は悔しそうな表情を浮かべたけれど、すぐにそれを消した。カッコ良かったよ。そう言って、微笑んだ。  僕と彼女は校庭を三周した。 「ねえ、給食って好きだった?」 「僕の小学校は給食がなかったんだ」 「ふーん、変わってるね。私立?」 「……うん」 「わたし、給食って大嫌いだった。全校生徒が、同じ時間に同じものを食べてるのって、なんだか恐いような気がしない?」 「分かるような気がする」 「この前、『アルカトラズからの脱出』を観てたら、囚人たちが同じ時間に同じものを食べてるシーンがあって、給食のこと思い出しちゃった。ねえ、クリント・イーストウッド、好き?」 「好きだよ。『ペイルライダー』は最高だと思う」 「わたしはやっぱり『ダーティハリー』が好き」  僕と彼女は鉄棒に両手を掛け、子猿みたいにブラブラした。 「どんな音楽、聴く?」 「色々聴くよ。でも、日本の音楽はあんまり聴かないかな」 「どうして?」 「……どうしてだろう? 深く考えたことはないな。君はどんな音楽を聴く?」 「わたしも色々聴くよ。でも、日本の音楽はあんまり聴かないかな」 「どうして」 「……どうしてかな。深く考えたことはないや」 「同じだね」 「うん、同じね」  僕と彼女は校庭の隅に置かれた、偉い人の胸像の鼻の穴の中に交代で指を入れた。 「将来の夢は?」 「……できれば一流大学に行って、できれば一流企業に入って、できればとんとん拍子に出世して、できれば可愛い奥さんを貰《もら》って、できれば可愛い子供が二人欲しくて、できれば都内に一戸建ての家を建てて、できれば定年退職後に囲碁でも覚えて、できれば小春《こはる》日和《びより》の日に、奥さんの手を取って、『おまえと暮らせて幸せだったよ』なんて言いながら老衰で死にたい。でも、きっとそうはできないから、違う人生を歩むと思う」 「ねえ、本気? できるようだったら、本当にそんな人生を歩むつもり?」 「うん」 「…………」 「どうして笑ってる? 何かおかしいこと言ったかな?」 「……あのね、わたしのまわりにいる男の子はみんなすごいのよ。『俺は絶対に有名人になる』って言うのね。どんな風に有名になるかは具体的には言わないんだけど、とにかく、『俺はすごい男になる』って」 「それは、君の気を惹《ひ》きたいからだよ。要するに先物買いをしとけってことだと思うよ」 「あなたはわたしの気を惹きたくないの?」 「…………」 「でもさ、どうしてさっき言ったような道を歩めないと思うの? 頑張ればできないことはないでしょ?」 「…………」 「どうした? 訊きにくいこと訊いたかな?」 「……僕はビル・ゲイツみたいな男になる」 「いまごろ遅いわよ」  僕と彼女は、校庭の真ん中に大の字になって寝転がった。 「静かね……」 「うん」 「…………」 「ねえ、もしよかったら名前を教えてくれないか?」 「名前なんてどうでもいいじゃない」 「…………」 「桜井」 「下のほうは?」 「教えたくない。嫌いなの、下の名前」 「僕の名前は——」 「杉原でしょ?」 「どうして……」 「ふふふ、さっき読み取ったから。でも、下の名前は読み取れなかった。下の名前は?」 「……名前なんてどうでもいいや」 「そうよね」 「うん」 「…………」 「…………」  桜井が飛び起きた。 「いま、見た?」  僕も急いで上半身を持ち上げ、桜井の顔を見て、頷いた。ほんの少し前、空に星が流れた。東京の明るい空でも、くっきり見えるような赤い尾を引きながら。  桜井のおでこに深い「川」の字が刻まれた。 「最低。男の子といてこんな恥ずかしい思いをしたの初めて」 「恥ずかしい?」 「だって、流れ星よ。男の子と二人で空を見上げてて流れ星を見るほど恥ずかしいことないじゃない。そう思わない?」 「そうかな?」 「そうよ」 「そうかな?」 「そうよ。もしかして願い事なんてしなかったでしょうね?」  僕は首を横に振った。「そんな暇なかったよ」 「ああ良かった」  桜井のおでこから「川」の字が消えた。代わりに、とても優しい笑みが顔に浮かんだ。 「恥ずかしいから、流れ星のことは誰にも言わないでね。二人だけの秘密よ」  こんな時、僕以外の男はどうするのだろう?  僕は桜井に触れたかった。どんな場所でも良かった。触れた時、桜井が僕の手を受け入れてくれたら、胸に満ちている焦燥《しようそう》感を消し去ることができるに違いなかった。僕は、目の前で微笑んでいる女を絶対に失いたくなかった。出会ってまだ数時間しか経ってなく、ほとんど得体の知れない女に対して、驚くほど強くそう思っていた。そして、彼女なら、僕の手を受け入れてくれるように思えた。  僕が手を伸ばそうかどうか迷っていると、桜井が唐突に立ち上がった。 「帰ろうか」  僕は少しずつの安堵《あんど》と失望を感じながら頷き、立ち上がった。  鉄扉の前まで行くと、桜井が「先に行って。今度は後ろから飛ぶのを見たいから」と言った。飛んだ。歩道側で待っていると、桜井が僕に向かって手招きをした。手助けが欲しいのだと思い、両手を校内側に差し入れると、桜井がいきなり僕の両手を引いた。僕の体は鉄扉に押しつけられた。桜井の顔が近づいてきた。 「前も、飛んでたよね」  桜井はそれだけ言って、唇を僕の唇に合わせた。なんて柔らかい唇なんだろう。桜井が僕の何を知っていようと、知ったことではなかった。そんなことはもうどうでも良かった。  僕と桜井はしばらくのあいだ、鉄扉を挟んだままキスをし続けた。焦燥感は、跡形もなく、消えていった。 [#改ページ]     3  加藤の誕生日の夜、結局、僕と桜井は田町《たまち》駅まで歩いた。  別れ際、キオスクでマジックペンと新聞を買い、新聞を小さく破いて、そこに電話番号を書き、お互いに交換した。 「次の日曜日は何をしてるの?」と桜井が訊《き》いた。 「友達と会う」  桜井のおでこに皺《しわ》が刻まれた。 「もしかして、つきあってる人がいるの?」  僕は慌《あわ》てて首を横に振った。 「ただの男友達だよ」  桜井はジッと僕の目を覗《のぞ》き込み、言った。 「わたし、嘘、嫌いだからね」  僕は少しの沈黙のあと、うん、と頷《うなず》いた。その時点で、話していない事柄はたくさんあったけれど、まだ嘘はついていなかった。  改札口を抜け、別々のホームへと向かう前、桜井は悪戯《いたずら》っぽい色を瞳《ひとみ》に浮かべ、訊いた。 「わたしがどうしても日曜に会いたいって言ったら、どうする?」 「男友達に会いに行く。そいつとの約束は破れないんだ」 「とても大切な友達なんだね」 「うん」     * * *  民族学校に通っていた頃の話をしたいと思う。  僕は、民族学校で小中一貫教育を受けた。民族学校で教わったのは、朝鮮語と朝鮮の歴史と、北朝鮮の伝説的な指導者、≪偉大なる首領様≫金日成《キムイルソン》のことと、あとは日本学校でも教わるような日本語(国語)、数学、物理、などなど。 ≪偉大なる首領様≫金日成。  民族学校のことを語る上で、この人物を避けて通ることはできない、絶対に。僕は、幼い頃から金日成がどれだけ偉大な人物であるかを、嫌というほど教え込まれた。  共産(社会)主義国家は宗教を認めていなくて、でも、国民を一枚岩のように団結させるためにはやっぱり宗教のようなものが必要で、当然ながら、宗教にはカリスマである教祖様が必要で、要するに、金日成は宗教の教祖様のようなものなのだ。  なのだ、なんていまではもっともらしく言っているけれど、もちろん、民族学校にいる頃の僕にはそんな理屈は分かってなくて、金日成への盲目的な忠誠心を押しつけられるのを、「なんかおかしい」と思いながらも、それが当たり前のこととして受け入れていた。だって、僕は物心ついた頃から民族学校という『教団』の中で過ごしてきたのだから。  でも、小学三年生のある日、僕はあることに気づいた。  それは、『金日成元帥の幼年時代』という授業を受けている最中のことだった。その日の授業内容は、幼い頃の金日成が、抗日運動の闘士である父親の逮捕のために自分の家にやってきた日本の官憲を、お手製のパチンコに小石をこめて狙撃《そげき》する、という内容だった。簡単に言ってしまえば、「金日成元帥は子供の頃からすごかった」ということなのだが、僕はこう思った。 「なんだ、俺たちのほうがすごいじゃん」  僕が小学二年生だったある日、僕と友達数人が下校していると、後ろからミニパトが走ってきた。友達の何人かが車道のほうにはみ出して歩いているのを、婦人警官は見逃さず、ミニパトに搭載《とうさい》されているトランジスタ・メガホンを使って、こんな風に注意した。 「あんたらみたいな社会のクズは道のハシを歩きなさいっ!」  なんてひどいことを言うんだろう、と僕たちは思わなかった。僕たちの学校にはよく右翼の街宣車《がいせんしや》が来ていて、もっとひどいことを連呼したりしていたので、僕たちは慣れていたのだ。そう、慣れてはいたけれど、やっぱり腹は立つ。  そんなわけで、翌日、僕と友人たちは『ミニパト襲撃チャリンコ部隊』を急遽《きゆうきよ》結成して、ミニパトにゲリラ的襲撃を仕掛け始めた。襲撃内容は単純で、自転車のカゴに「水風船爆弾」を搭載して街をパトロールし、ミニパトを見つけたら水風船爆弾を投げつけて逃げる、というものだった。  僕たちは数々の襲撃に成功した。一度も捕まらなかった。細道を抜ける逃走経路をきちんと事前に調べておいたからだ。ちなみに、金日成がパチンコを撃ったあとのことは、僕たちは教わらなかった。捕まらなかったのだろうか?  チャリンコ部隊を結成して二週間後のある日、仲間が投げた水風船爆弾が、走っているミニパトのフロントグラスにぶつかって、割れた。その仲間は水風船の中に黒と緑と赤と焦げ茶の絵の具が交じった水を入れていた。一瞬視界を奪われたミニパトはFl並みのドリフト走行を繰り広げ、ガードレールにぶつかった。僕たちはいったん現場から逃げたあと、事故現場が見えるマンションの屋上に上り、事故処理の様子を眺めていた。二人いる婦人警官の一人のほうが、めそめそと泣いていた。僕たちは弱い者イジメが嫌いだったので、もう許してやることにして、その日を境に襲撃を止《や》めた。  冗談ではなく、もし金日成がどこかの宗教の教祖みたいに水の上を歩けたら、僕はその途轍《とてつ》もないホラ話に惹《ひ》かれて、金日成に忠誠を誓ったかもしれない。でも、僕にとって、色々と聞かされる金日成の伝説の物語は、貧弱でしかなかった。ちっとも心惹かれるものがなかった。ワクワクしなかった。だから、僕は小学三年生のある日、このことに気づいたのだ。 「俺たちの物語のほうがすごい」  そのことに気づいて以降、僕は『朝鮮学校開校以来のバカ』と呼ばれるようになった。理由は簡単で、勉強をまるっきりしなくなって成績ががた落ちしたことと、よくわけの分からないことを言って学校を休んだからだった。  僕は学校が大嫌いだった。一日の終わりに開かれる共産主義の十八番、「総括《そうかつ》」、「自己批判」。総括の時間は例えば、こんな感じだ。教師が校内で日本語を使った生徒をまず一人やり玉に上げて自己批判させたあと、次に、そいつに他にも日本語を使った生徒の名前をチクらせる。だんまりを決め込むとビンタを食らったり、延々と自己批判させられたりするし、結局は名前を吐くまで総括が続く羽目になるので、みんなあっさりと仲間をチクる。チクられても、仲間を恨《うら》む奴は誰もいなかった。だって、僕たちは、早く総括から解放されて、みんなで遊びに行くためにチクり合うのだから。とにかく、「総括」と「自己批判」があるかぎり、僕は共産主義を認めるつもりはない。  運動会の予行練習のほとんどはマスゲームに費やされた。小学校の四年に上がると、軍隊式行進の練習が加わる。一糸《いつし》乱れぬ軍隊式行進。ゴム底の靴で、ザッザッザッ、という軍靴が立てるような音を出せるようになるまで、練習は続く。僕たちはいつの間にか、金日成率いる朝鮮労働党の少年団員になっていて、いつか金日成のために戦うのだと教わった。僕はまっぴらごめんだった。  学校にいると、常に厳しい統制下に置かれているような窮屈さがあった。そんなわけで、僕は小学校の四年に上がった頃から、よく「頭の左側が痛い」とか、「目の奥が熱い」とか「ベロが割れそうに痛い」とか言って学校を休むようになった。  その頃はまだ熱心な総連の活動員だったオヤジは、僕が学校を休むとあまりいい顔はしなかったけれど、かといって、無理に学校に行かせようとはしなかった。オフクロはどちらかというと、僕が学校を休むのを喜んでいたので、僕は両親公認で堂々と学校を休んでいた。  小学五年に上がってすぐの頃のある日、学校を休んでビデオで映画ばかり観ている僕に、オヤジが言った。 「なんか他にやりたいことないのかよ?」  僕は少し考えたあと、ボクシングを教えて欲しい、と頼んだ。少し前に『ロッキー』を観たばかりだったのだ。パチンコの景品交換業は比較的時間の融通《ゆうずう》がききやすい商売なので、翌日の昼間からさっそくオヤジとのトレーニングが始まった。  トレーニング初日、僕とオヤジは近所にある、ジョギングコース付きの大きな公園に向かった。公園に着くと、オヤジは公園の真ん中に敷かれている「立入禁止」の広い芝生区域の中に入っていった。僕もあとを追った。芝生区域のほぼ真ん中あたりに辿《たど》り着いた僕とオヤジは、少しの距離を置いて向かい合う形で立った。オヤジは少しのあいだ、無言で僕を見つめていた。  いったい、どんなトレーニングをさせられるんだろう?  僕はちょっと緊張していた。オヤジが口を開いた。 「左腕をまっすぐ前に伸ばしてみな」  僕はとりあえず言われた通りにした。オヤジが続けた。 「腕を伸ばしたまま、体を一回転させろ」 「は?」 「足をその場所から動かさないで、どっち回りでもいいから回ってみろ。コンパスみたいにな」  オヤジの顔は真剣だった。僕はためらいながらも、左腕をまっすぐ伸ばしたまま、左回りに体を一回転させた。僕が再びオヤジとまっすぐ向き合うと、オヤジは言った。 「いま、おまえのこぶしが引いた円の大きさが、だいたいいまのおまえという人間の大きさだよ。その円の真ん中に居座って、手に届く範囲のものにだけ手を出したり、ジッとしたりしてればおまえは傷つかないで安全に生きていける。言ってること、分かるか?」  僕はゆっくりと頷いた。オヤジは続けた。 「おまえはそういうの、どう思う?」  僕はすぐに答えた。 「ジジくせえ」  オヤジはニカッという笑みを浮かべ、言った。 「ボクシングは自分の円を自分のこぶしで突き破って、円の外から何かを奪い取ってこようとする行為だよ。円の外には強い奴がたくさんいるぞ。奪い取るどころか、相手がおまえの円の中に入ってきて、大切なものを奪い取っていくことだってありえる。それに、当たり前だけど、殴られりゃ痛いし、相手を殴るのだって痛い。何よりも、殴り合うのは恐いぞ。それでも、おまえはボクシングを習いたいか? 円の中に収まってるほうが楽でいいぞ」  僕は少しもためらったりせずに、答えた。 「やる」  オヤジはまたニカッと笑い、言った。 「それじゃ、始めるか」  トレーニングとは言っても、初めのうちはジョギングコースをただひたすら走らされた。オヤジは言った。 「打ち合うのは確かに上半身だ。でも、強いパンチは強いフットワークから生み出される。それに、土台の悪い家は簡単にぶっ壊れる。だから、走れ」  息を切らせずに走れるようになると、パンチの打ち方を教わった。教わり始めの頃、僕はパンチを出す時に、軸足のつま先を上げてしまう癖があった。オヤジは言った。 「しっかり踏ん張れ。大地を敵にまわすな」  次は、フットワーク。オヤジは現役時代、足を止めて相手と打ち合う、典型的なファイター・タイプのボクサーだった。だから、てっきりインファイトの技術ばかりを教わるのかと思ったら、違った。オヤジは模範として、水が自在に流れるような華麗なステップで、前後左右に動いてみせた。僕が不思議そうにそれを見ていると、オヤジは動きを止め、不敵に笑いながら、言った。 「アウト・ボクシングは客には受けないんだよ。金が必要だったからな。何かを得るためには、何かを失《な》くさなくちゃならない」  始めのうち、僕のステップは、膝《ひざ》を硬く伸ばしたまま動いていたので、ひどく重かった。 「膝を軽く曲げて、柔らかく動かせ。パンチを食らった時でも、膝を柔らかくしとけば衝撃を吸収できる。いいか、すごい台風が来た時、まっすぐ伸びた木は折れちまう。柔らかい草はなんともない」そこまで言ったあと、オヤジは少し照れたように右の目尻《めじり》の傷をポリポリと指でかきながら、続けた。「というようなことを老子っていうおっさんが言ってる」  黙ってパクることに良心が咎《とが》めたのだろう。  ひどい雨の日や、オヤジが仕事でトレーニングが休みの日には、いつもオフクロと一緒に銀座に出て、映画を観た。オフクロはハリウッド映画を大きなスクリーンで観るのが大好きで、映画を観終わったあとは必ず目をキラキラ輝かせて、面白かったねえ、と僕に言った。僕はどんなにつまらない映画でも、必ず、うんうんうん、と頷いた。  映画を観たあとは、たいてい千疋屋《せんびきや》とか資生堂パーラーに入って、甘いものを食べた。僕は甘いものはあまり得意ではないのだけれど、オフクロが赤ん坊みたいな笑顔で、ほんとにおいしいねえ、と僕に言うので、僕はいつも、うんうんうん、と頷いた。  時々、僕はオヤジとオフクロさえいれば、学校なんてまったく必要ないと思った。でも、オヤジとオフクロとの蜜月《みつげつ》は長くは続かなかった。小学六年の夏休み前、僕に唐突に反抗期が訪れたのだった。  オヤジとの最後のトレーニングは、七月七日の七夕《たなばた》だった。僕は嫌々といった感じでオヤジと公園に向かった。芝生に入り、僕とオヤジは向かい合った。 「今日はダッキングからの左右のコンビネーション・パンチを教えてやる」オヤジはそこまで言って、悪戯っぽい笑みを浮かべ、続けた。「いいな、ルーク」  前の日の晩、僕が居間のテレビで『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』のビデオを観ているところにオヤジがふいにやってきて、珍しく一緒に観始めた。ルーク・スカイウォーカーと師匠のヨーダのトレーニング・シーンを観ている時、オヤジがやけに満足げに何度か頷いた。嫌な予感がした。映画が終わったあと、オヤジは言った。 「俺のこと、ヨーダって呼んでもいいぞ、ルーク」  おまえはどう考えたってダース・ベイダーだろうが——。  そんなわけで、最後のトレーニングは初めから不穏《ふおん》な空気が流れていた。そして、三度目にルークと呼ばれて僕がキレかかった時、急に空を紺色の分厚い雲が覆い始めた。遠くから雷の音が聞こえてきた。オヤジが空を見上げながら、言った。 「やべえな。帰るか」  遅かった。公園の出口のあたりで、どしゃ降りのにわか雨に襲われた。僕とオヤジは公園の中にある、樹齢が三百年ぐらいはありそうなほど大きな銀杏《いちよう》の木の下に逃げ込んだ。僕とオヤジは木の根元のあたりにしゃがみこんで、ぼんやりと、ところてんのように太い雨の筋を眺めていた。ふいに、地面を叩《たた》く雨の音に負けそうな声で、オヤジが言った。 「おまえ、将来、なんになりたいんだ?」  僕はたっぷりの間を取って、言った。 「カストロ」  オヤジは、チェッ、可愛げのない野郎だぜ、といった感じで僕を見たあと、視線を雨に戻した。そして、太い雨の筋を徐々に上に向かって辿っていき、顔を空に向けた。また、か細い声で、オヤジが言った。 「天国まで繋《つな》がってるみたいだな……、天国ってほんとにいい国なのかな……」  その時の僕は反抗期で、なに言ってんだ、このパンチドランカーめ、と思ったけれど、いまになってみれば、そう言ったオヤジの気持が分かるような気がする。その少し前、オヤジは初めて景品交換所を奪われるという経験をしていたのだった。  オヤジは顔を下ろしたあと、大きく息を吐いた。そして、僕に顔を向け、ニカッと笑い、言った。 「よーし、決めた。俺、鯉《こい》の滝登りみたいにして、天国に登ってっちゃうぞ。おまえも来たかったら、来い!」  オヤジは木の下から飛び出て、激しいにわか雨の中を走り、芝生区域に入って、ピョンピョンと飛び跳ね始めた。顔に満面の笑みを湛《たた》えながら、何度も何度も。たまに、妙なステップも踏んだ。どの動きも、僕がこれまでに見たことのないものだった。  とにかく、その時の僕は反抗期で、なにやってんだ、このパンチドランカーめ、と思ったけれど、いまから思えば、オヤジの動きは『雨に唄えば』の、ジーン・ケリーの雨の中でのダンスに似ていたような気がする。僕はそのシーンを何度観ても、観るたびに幸せな気持になってしまうのだ。  やがて、分厚い雲が遠くのほうに去って行き、雨が止んだ。代わりに太陽が顔を出し、透き通った日差しを芝生に降り注いだ。水滴がキラキラと光っている目映《まばゆ》いばかりの緑の絨毯《じゆうたん》の上にすっくと立っているオヤジは、僕のほうに向かってこう問いかけるように首を少しだけ傾《かし》げながら、僕を見ていた。  どうして来なかったの?  中学に上がってから、僕は学校に真面目に通うようになった。  とはいっても、相変わらず学校は大嫌いだった。学校に通っていたのは、そこに友達がいたからだった。まわりにいる連中は、血を分けた兄弟みたいなものだった。よほどのことがないかぎり、ほとんど変わらない顔ぶれのまま、最低でも高校まで一緒に一貫教育を受けるのだ。まるで長い長い合宿生活を送っているようなもので、僕たちのあいだには友情以上のものが芽生《めば》える。そして、芽生えたものを成長させるのは、やっぱり「差別」という養分だった。  冗談みたいな話だけれど、むかしの天皇誕生日の四月二十九日には毎年、体育系と民族系の日本学校の連中が、「朝鮮人狩り」と称して僕たちをイジメに来たので、僕たちは集団登下校をしなくてはならなかった。僕たちは団結するしかなかったのだ、否応《いやおう》なく。  いつでも仲間と一緒にいるのは、とても居心地《いごこち》が良かった。それに、とても楽しかった。僕たちは誰も口には出さなかったけれど、子供心ながらに、「どうせロクな大人にはなれない」と思っていて、だからこそ学校というゆりかごの中にいるうちにめいっぱい遊んでおこう、という共通認識を携えていた。僕はリオのカーニバルには行ったことはないけれど、カーニバルで羽目を外す下層階級の人たちの気持は理解できる。カーニバルの渦《うず》の中では、|僕たち《ヽヽヽ》主役なのだ。僕たちの反対側にいる連中は、ステップさえ満足に踏めやしないのだ。  僕たちは色々な遊びを発明し、痛めつけるほどに体を動かして遊び、息が詰まるぐらい長く笑った。でも、教師たちは、僕たちに言った。 「バカみたいに笑うな。朝鮮人としての自覚と誇りを持て」  そう、学校は大嫌いだったけれど、仲間たちとその中にいると自分が確実な何かに守られている安心感があった。たとえそれがひどく小さな円を描いて完結していて、僕を窮屈に締めつけていたとしても、そこから出て行くには相当の勇気が必要だった。  僕に勇気を与えてくれたのは、オヤジのハワイ行きと、タワケ先輩の失踪《しつそう》だった。  タワケ先輩の失踪について、話そうと思う。  タワケ先輩は僕よりふたつ上の先輩で、中学三年の時すでに百メートルを十一秒二で走った。タワケ先輩は剛毛《ごうもう》で、風を切るようなスピードで走っても、短い髪はそよりとも揺れなかった。喧嘩《けんか》相手に頭突《ずつ》きをしたら、相手の皮膚に小さい穴がたくさん開いた、という噂もあった。先輩の毛はタワシの毛のように硬かった。「タワシの毛」、略して「タワケ」。  僕はタワケ先輩に「クルパー」と呼ばれて可愛がられた。  中学に上がってすぐの頃、僕たち一年坊の何人かが、タワケ先輩の命令で小さな暴走族との喧嘩に駆り出された。民族学校の上下関係は儒教の影響でかなり厳しく、先輩の言うことは絶対的だった。  僕たちのグループと暴走族が、まず睨《にら》み合いをしている時、タワケ先輩が僕に、「行け」と命令した。緊張して舞い上がっていた僕は、「はい」と答えて素直に暴走族の群れの中に独りで突っ込んでいった。ボコボコにされて、全治二週間の怪我《けが》を負った。 「本当に行く奴があるかよ。おまえ、クルパーだな」  タワケ先輩のその言葉で、中学時代の僕のあだ名は「クルパー」に決まった。  タワケ先輩はサッカー部のエース・ストライカーで、学校のヒーロー的存在だった。僕はバスケ部だったが、部活が終わったあとは、ほとんど毎日タワケ先輩とつるんで街を練り歩いた。そして、喧嘩相手を見つけ、喧嘩をした。理由はいらなかった。目が合って、相手がそらさなければ、それが始まりの合図だった。タワケ先輩と僕は、いつも苛立《いらだ》っていたのだ。原因は分かっていなかった。でも、その苛立ちが、部活では解消できないということだけは分かっていた。  大勢が入り乱れる他校との喧嘩の時は、通報を受けて駆けつけた警察に追われることもあった。僕はいつもタワケ先輩と同じ方向に逃げた。でも、タワケ先輩の、そよりとも髪が揺れない後頭部は、すぐに見えなくなり、僕が追いつけることは一度もなかった。タワケ先輩はそれまで、一度も警察に捕まったことはなかった。  卒業式の日、僕が花束を渡すと、タワケ先輩は照れ笑いを浮かべながら、僕のふとももを軽く蹴《け》って、言った。 「鍛えとけよ。俺たちは速く走れなきゃダメなんだ」  最後にタワケ先輩に会ったのは、僕が中二の時の春休みで、オヤジに国籍の選択を迫られる少し前のことだった。急にタワケ先輩に呼び出され、居酒屋で二人だけでお酒を飲んだ。そのまま民族学校の高校に進学した先輩は、ひとまわり体が大きくなっていて、百メートルを十秒九で走れるようになっていた。  お互いの近況などを話し、僕がオヤジのハワイへの目覚めを話すと、タワケ先輩は本当に楽しそうにゲラゲラと笑った。そして、笑い終えたあと、僕に訊いた。 「おまえ、将来のこと考えてるか?」  僕は首を横に振った。 「俺みたいにそのまま高校に上がって、卒業して、同胞が経営してるパチンコ屋か焼肉屋か金融屋に入って働くか? それとも、医者か弁護士にでもなるか?」  僕たちは顔を見合わせて、笑った。≪在日朝鮮人≫社会には、必ず親から子供に伝え聞かされる『おとぎ話』があった。 「朝鮮人でも国家試験を受けて、医者や弁護士になれる」  マイノリティの現実を歌ってくれるルー・リードは、『ダーティー・ブールヴァード』という曲の中でこんな風に言っている。 [#ここから2字下げ] |ここの連中《ヽヽヽヽヽ》は誰も医者や弁護士になることを夢見ちゃいない この汚い大通りでどうにか生き抜くことだけを夢見てる [#ここで字下げ終わり]  すごい。これは僕たちの歌だ。もしかしたら、ルー・リードは≪在日≫なのかもしれない。  とにかく、僕のまわりの誰もが、医者や弁護士になろうなんて思ってなかったし、なれるとも思ってなかった。僕たちは、そんなものになれるようなシステムの中で育ってなかったのだ、残念ながら。例えば、その『おとぎ話』は僕の耳にはこんな風に聞こえた。 「セリエAのチームに入って、試合でシュートを決めてこい」  でも、タワケ先輩ならシュートを決められる可能性があった。仮定の話をしても仕方がないけれど、もしタワケ先輩が≪日本人≫だったら、それが当たり前のようにJリーグのすごい選手になって、行く行くは外国のチームからスカウトされ、セリエAとかブンデス・リーガなんかでプレイして、大金持ちの有名人になってたと思う。タワケ先輩は日本で生まれて、日本で育ち、日本語を喋《しやべ》れた。でも、たまたま朝鮮籍を持つ≪外国人≫だった。そして、この国のシステムは≪外国人≫に対して多くの障害物をこしらえていて、そのせいで大金持ちの有名人はおろか、Jリーグにでさえほとんど辿り着けない。タワケ先輩はある障害物にぶつかった。自慢の駿足《しゆんそく》が止まった。僕はその話を聞いた。  テーブルの上にビール瓶が三本立った頃、タワケ先輩が別に深刻な感じでもなく話し始めた。 「俺、少し前に指紋|捺《お》してきたんだよな」  その頃にはまだ在日外国人の指紋|押捺《おうなつ》制度があって、十六歳になると、役所の外国人登録課に行き、まるで犯罪人のように指紋を捺さなくてはならなかった。僕は何度か警察に補導されて指紋を捺したことがあったけれど、捕まったことのないタワケ先輩は初めての経験だった。 「俺、登録課の野郎たちを殴ってやろうと思ったんだ。指紋を捺さねえとめんどくせえことになるだろ? 鬱陶《うつとう》しいのは嫌だったから、せめてもの腹いせに登録課の野郎たち全員をぶん殴ってやろうと思ったんだよな」  タワケ先輩はビールが入ったコップに口をつけ、ゴクゴクと飲んだ。 「でも、登録課に行ったら、まず出てきたのがびっこ引いてるおっさんなんだよな。そのおっさんがまだガキの俺に本当にすまなそうに『ご苦労様です』なんて言うんだよ。そのおっさんは全部で十五回ぐらいは俺に『ご苦労様です』って言ったんじゃないかな。それで、指紋を捺す用紙を持ってきたまだ若い姉ちゃんの顔には大きな痣《あざ》があってさ、その若い姉ちゃんは一度も俺と目を合わさなくて、でも、俺が指紋を捺す時には、他の人間に見えないようにノートをついたてにして隠してくれたんだ。俺、もう殴るどころじゃなかったよ。俺は区役所を出るまでに、十回は『すいません』て言ってたよ。俺、これまで生きてきて、『すいません』をそんなに多く言ったの初めてだった……」  タワケ先輩は真剣な眼差《まなざ》しで僕を見て、続けた。 「とうとう捕まっちまったよ……。権力は恐ろしいぞ。相当足が速くなきゃ、逃げ切れねえ」  居酒屋からの帰り道、かなり酔っ払っていたタワケ先輩は、僕の頭を叩《たた》きながら「クルパークルパー、ハワイハワイ」とつぶやいていた。別れ際、タワケ先輩は揺れた足取りで軽く僕のふとももを蹴って、「じゃあな」と言った。僕が挨拶《あいさつ》をして、タワケ先輩と違う方向に歩き出してすぐ、僕の背中に、僕が初めてタワケ先輩から掛けられた言葉がぶつかってきた。 「行け」  振り返った時には、タワケ先輩はもう僕に背中を向けて歩き出していた。やっぱり髪の毛はそよりとも揺れていなかった。それが、タワケ先輩を見た最後だった。  あとで聞いた話では、タワケ先輩は僕と最後に会った時にはすでに朝鮮籍から韓国籍に変え、高校も辞めていたそうだ。そして、タワケ先輩はいなくなった。行き先は誰も知らない。噂では、フランスに行って外国人|傭兵《ようへい》部隊に入ったとか、イギリスに行ってフーリガンのリーダーになってるとか、オランダのアムステルダムでヒッピーの王様になってる、ということだった。いずれにせよ、タワケ先輩がどこかを走り回っていることは、間違いなかった。そう、誰も追いつけない、ものすごいスピードで——。  僕は中学三年に上がってすぐ、日本の高校を受験することを、教師たちに宣言した。『開校以来のバカ』がわけの分からないことを言い出した、と一笑に付されるかと思ったのだけれど、学校側は予想外の恐慌《きようこう》に陥った。民族学校に通う生徒は年々減り続けていて、そのままで行くと学校の存亡に関わる事態になる恐れがあったので、学校側はたった一人の生徒でも失うのを嫌がった、というわけではなかった。僕は教頭に呼ばれて、こう言われた。 「おまえが日本学校に行くのはぜんぜん構わない。でも、それを他の生徒が知って、だったらわたしも、と言い出すのは困る。だから、おまえが日本の高校を受験することは絶対に秘密だ」  こうして僕は、あからさまな戦力外通告を受けた。  こうも言われた。 「だいたい、おまえみたいなバカが日本の高校に合格するわけはない。落ちたあとに泣きついてきても、うちの高校には絶対に入れないぞ。それを覚悟の上で、受験するんだな」  なんてひどいことを言うんだろう、と僕は思わなかった。その頃の僕は「certainly」がきちんと読めなかったし、「George」のことは「ゲロゲ」と読んでいたし、「leave」の過去形は「leaved」だと思っていた。そう、なんてひどいことを言うんだろう、とは思わなかったけれど、やっぱり腹は立つ。  僕は猛勉強を開始した。関節がおかしくなったといって部活を止め、正義に目覚めたといって放課後の悪さを止め、内緒で学習塾に通い、必死に勉強した。そんなある日、僕が学習塾に入っていくところを、ある友達に目撃された。その翌日には、目撃談は全校に広がっていた。そして、教師のイジメが始まった。  受験を一ヵ月後に控えたある日、『金日成元帥の革命歴史』の授業中、僕は前夜の猛勉強のせいで居眠りをしてしまった。教師のビンタを食らって、目覚めた。授業は中断され、僕は教卓の前に正座をさせられたあと、「自己批判をしろ」と迫られた。批判することが見当たらなかったので黙っていると、またビンタを食らった。耳の中で、キーン、という金属音が鳴っていた。聞き覚えのある音だった。鼓膜《こまく》が破れていた。  ふとももにつま先蹴りを三発食らった。目に涙が滲《にじ》むぐらい痛かった。鼻の頭にデコピンを五発食らった。楽しい思い出が五つ消えてしまうぐらい痛かった。耳を引っ張られて、床に引き倒された。歯茎から血が出るぐらい屈辱的だった。その頃にはもう僕が朝鮮籍から韓国籍に変えたことが学校側にばれていたので、イジメは特にひどくなっていたのだ。ちなみに、オヤジも総連のむかしからの仲間にシカトを食らう、という陰湿なイジメに遭っていた。 「おまえは民族反逆者だ」と言われてみぞおちに蹴りを食らい、「おまえみたいな奴は何をやってもダメだ」と言われて頭を小突かれ、そして、最後に「おまえは売国奴《ばいこくど》だ」と言われて、またビンタを食らった。僕には「売国奴」の意味がよく分からなかった。もちろん、文字通りの意味としては分かる。でも、僕が「売国奴」であるとはどうしても思えなかった。感覚としてはそれを分かっていたのだけれど、言葉にすることはできなかった。そして、僕の代わりに言葉にしてくれる奴が現れた。まるでヒーローみたいに。  教室の後方から声が上がった。 「僕たちは国なんてものを持ったことはありません」     * * *  日曜日。  待ち合わせの時間より五分前に新宿駅東口の改札に着くと、正一《ジヨンイル》はすでに来ていて、改札口の脇の柱にもたれて文庫本を開いていた。僕は正一に近づき、声も掛けずにいきなり文庫本を覗き込んだ。夏目漱石の『吾輩は猫である』だった。 「面白いか?」と僕は訊いた。  正一は文庫本を閉じて、言った。 「三角なものが大和魂《やまとだましい》か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらしている」 「面白そうだな」と僕が言うと、正一は続けた。 「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇《あ》った者がない。大和魂はそれ天狗《てんぐ》の類か」  正一は、人懐《ひとなつ》っこい笑みを僕に向けた。僕は正一の笑顔が大好きだった。  正一は≪在日韓国人≫の父親と日本人の母親のあいだに生まれた。父親は正一が三歳の時に何処《どこ》かへ行ってしまって、それ以来行方不明だった。  正一のお母さんは、正一が小学校に上がる歳になると、迷わず民族学校に入学させた。民族学校は各種学校扱いで国から助成金が出ないから、授業料なども高いのだが、お母さんは一生懸命に働いて授業料を稼ぎ出した。  こうして韓国籍で、韓国と日本のハーフの、風変わりな民族学校生が誕生した。そして、小学校の高学年に上がった頃には、正一は『開校以来の秀才』と呼ばれるようになっていた。中学に上がるまでずっとクラスが違ったこともあるのだけれど、『開校以来のバカ』と呼ばれていた僕は、正一とほとんど言葉を交わしたことがなかった。住む世界が違っていたのだ。 「僕たちは国なんてものを持ったことはありません」  そう言った時点で、正一は小中合わせて八年間の全科目オール5と皆勤《かいきん》を達成していたし、「certainly」もきちんと読めたし、現在完了のこともきちんと説明できたし、筆記体の読み書きもきちんとできた。ついでに、万引きもカツアゲも殴り合いの喧嘩《けんか》もしたことがなかったし、そもそも、正一は誰とも群れなかった。正一はいつも独りだった。教師でさえ正一の存在を持て余していたのだ。僕のまわりの連中も正一に近づこうとしなかった。  僕のために反抗的な言葉を吐いたことで、正一は生まれて初めて教師に殴られた。僕は色々と迷った末に、なけなしのお金をはたいてプレイステーションを買い、正一にプレゼントした。プレイステーションを手にした正一は初め困ったような顔をしていたけれど、すぐに人懐っこい笑みを浮かべ、「ありがとう」と言った。ちなみに、そのプレイステーションは教師に見つかって、没収された。ビンタも食らった。学校で渡すべきじゃなかったのだ。でも、僕と正一は友達になった。  僕が奇跡的に日本の高校に合格し、進学すると、それまでずっと親しかった友達とは自然と疎遠《そえん》になっていった。暮らす環境がまるっきり違ってしまったこともあったが、連中から見れば、結局僕は「よそ者」になってしまっていたのだ。  正一もそのまま民族高校に進学した。でも、僕と正一の関係は切れなかった。むしろ、僕と正一の関係は深まっていった。最低でもひと月に一回は会って、色々な話をした。まあ、色々とはいっても、テーマはいつも決まっていたのだけれど。  僕と正一は、喫茶店に入り、晩御飯までの時間を潰《つぶ》した。  僕はテーブルに座ってすぐ、デイパックの中から、スティーヴン・J・グールドの『人間の測りまちがい—差別の科学史』を取り出して正一に渡した。 「今月はこれが一番面白かった」 「どんな感じ?」と正一が訊いた。 「遺伝決定論を主張する科学者は信用するな、っていう感じ」 「よく分かんないな」 「例えば、俺たちの頭蓋骨《ずがいこつ》がちっちゃかったとするだろ。やばい科学者は、俺たちをひとまとめにして、『韓国人は頭蓋骨がちっちゃい。だから、頭が悪い』って言い出す。もしもの時に、そのデータが俺たちの迫害のために利用される。アメリカでは黒人とインディアンがそんな目に遭った」  正一は、「読んでみるよ」と言って本をカバンの中にしまったついでに、一冊の文庫本を取り出して、僕に渡した。開高健の『流亡記』という本だった。 「カッコいいぞ」と正一は言った。  僕は『流亡記』をパラパラとめくりながら、「おまえは小説ばっかり読んでるな」と言った。僕は小説の力を信じてなかった。小説はただ面白いだけで、何も変えることはできない。本を開いて、閉じたら、それでおしまい。単なるストレス発散の道具だ。僕がそういうことを言うと、正一はいつも、「独りで黙々と小説を読んでる人間は、集会に集まってる百人の人間に匹敵《ひつてき》する力を持ってる」なんてよく分からないことを言う。そして、「そういう人間が増えたら、世界はよくなる」と続けて、人懐っこい笑顔を浮かべるのだ。僕はなんだか分かったような気になってしまう。  僕は本をデイパックにしまったあと、思い出して、言った。 「そういえば、この前借りた芥川の『侏儒の言葉』、カッコよかったぞ」  正一は嬉《うれ》しそうに微笑んだ。  お互いの近況をざっと話し終え、大学受験の話になった。僕は一応受験するつもりでいたけれど、それは漠然《ばくぜん》とした気持だった。どの大学も結局は『サラリーマン養成校』みたいなもので、僕はそんなものに用はなかった。理由は簡単だ。サラリーマンになったところで、国籍のせいで社長にはなれないから。最高の望みを初めから断たれたまま、組織の中で飼い殺されるなんてまっぴらだ。 「大学に行かないなら、どうするつもり?」と正一は訊いた。 「考えてない。でも、就職するつもりは絶対にない」と僕は答えた。 「それじゃ、大学の四年間で何をしたいか決めればいいじゃない」 「そんな、もったいない」  正一は冷めかかっているコーヒーに口をつけ、真剣な口調で言った。 「クルパーはさ、もったいない生き方をしたほうがいいと思うよ。もうすでに大幅にずれた生き方してるんだからさ。俺、クルパーにはそのままずれて行って欲しいんだよね、どこまでも。クルパーはそれができると思うし。まあ、俺の勝手な思いだけど」  正一が人懐っこい笑みを浮かべた。僕はくすぐったくなった。僕は教師に誉められたことが、ほとんどなかった。でも、教師に誉められた時の気持は分かる。そして、正一は日本の大学に進学したあと、教職課程を採《と》り、教師になるつもりでいた。民族学校の。 「それじゃ、おまえも俺ともったいない生き方しようぜ」と僕は言った。  正一は首を横に振った。「俺はそういうタイプじゃないよ」 「いまのうちから分かるもんか」 「分かるよ。そういうのは決まってんだ、初めから」 「やばい科学者みたいなこと言うなよ」 「そういうのとは違うんだ。俺が言ってるのは『役割』みたいなものかな」 「そんなもの捨てちまえ」 「捨てたら、俺じゃなくなる」  僕は短くため息をついた。「頼むから、狭いところに戻って行こうとするなよ」  正一は冷め切ったコーヒーを飲み干し、優しい口調で言った。 「クルパーは前に、民族学校のことを宗教の『教団』みたいなものだ、って言ったよね」  僕は頷いた。正一は続けた。 「俺、宗教のことはあまりよく分かってないけど、宗教が色々な意味で弱い立場の人間の受け皿になる役割を持ってるなら、民族学校っていう『教団』は絶対に必要なんだよ」 「俺は、気がついたら『教団』の中にいたぞ。強い弱いに関係なく」 「俺もだよ。でも、俺、日本学校に行ってたら、きっとイジメられっ子になって、自殺してたかもしれない」 「嘘つけ」 「本当だよ。俺、ガキの頃、よく近所の連中にイジメられてたんだぜ。めちゃくちゃひどいことも言われた。その様子をテレビで放映したら、ずーっと『ピー』が入ってると思う」  僕と正一は、一瞬の沈黙のあと、短い笑い声を上げた。正一は笑いを収め、言った。 「でも、民族学校に通うようになって、クルパーみたいにいつもタフに飛び跳ねてる連中を見てるうちに、俺もいつの間にか強くなれたんだ。近所の連中に何を言われても、平気になった」  僕と正一のあいだに、また沈黙が流れた。僕は言った。 「おまえとガキの頃から友達だったら良かったのにな。そしたら、俺が近所の連中を全員ぶちのめしてやったのに」  正一は眩《まぶ》しいものでも見るように目を細めて僕を見つめ、言った。 「いや、おまえはぶちのめしてくれてたよ、ちゃんと」  僕と正一は顔を見合わせて、へらへらと笑った。正一はきっぱりとした口調で、言葉を続けた。 「俺みたいなガキのために、『教団』は必要なんだよ。俺はね、日本の大学でしっかり勉強して、ちゃんとした知識を持って『教団』に帰って行って、俺の後輩たちが広い場所に出て行けるようなことを教えてやりたいんだよ。俺がおまえたちからもらったような勇気を与えてやりたいんだよ。もちろん、後輩たちにはおまえのことを話すよ。バカみたいに強い先輩がいた、って。だから、その時のためにも、すごい人間になってくれよ」  正一の顔には、いつもの人懐っこい笑みが浮かんでいた。僕はまたくすぐったくなった。 「おまえは、きっといい教祖になれるよ」  正一は照れ臭そうに笑って、言った。 「金日成が死んでから、『教団』も変わり始めてるよ。少しずつだけど、外の世界にも目が向くようになってきてる。俺が戻る頃には、『互助会』ぐらいにはなってると思う」  少し前に金日成が死んだ時、僕は恐いぐらいに何も感じなかった。僕の中で、『金日成』という物語が書かれた本は完全に閉じられていたのだ。開かれることは、もう二度とない。  喫茶店の壁に掛かっている時計が目に入った。七時を過ぎていた。僕は伝票を手にしながら、言った。 「飯、食いに行こうぜ」  新宿五丁目にある、焼肉屋に行った。  店は、十二階建てのビルの八階から十二階までを店舗に使っていて、僕と正一はまず入り口の八階に上がった。日曜日の食事時だけあって、店はひどく混雑していた。  僕と正一が、入り口近辺で空席待ちの客に揉《も》まれていると、客席のほうから、髪の毛を後ろでひとつにまとめ、とてもシックな感じの黒のノースリーブのワンピースを身にまとい、上品な化粧を顔に施《ほどこ》している接客係の中年の女性が現われた。 「御予約の、お二人様ですね」  予約なんて入れてなかったけれど、接客係の女性の言葉に、僕は首を縦に振った。エレベーターに案内され、箱の中に入った。扉が閉まってすぐに、僕は接客係の女性に言った。 「チャイニーズ・マフィアの情婦みたいだぞ」  オフクロに頭をはたかれた。正一が、クスクスと笑った。 「久し振りね、正一君」とオフクロが言った。  正一はきちんとお辞儀をして、言った。 「相変わらずお綺麗《きれい》ですね」  オフクロは嬉しそうに微笑み、「正一君にはおいしい肉を用意してるからね」と言った。  エレベーターが十二階に着いた。箱から降りる時、正一の腹を軽く殴った。 「エロ教祖め」  フロアの奥にある、畳敷《たたみじ》きの個室に通された。窓から見る夜景はとても綺麗だった。僕が畳の上に寝転がって、「ちくしょう、腹減ったぞ」と唸《うな》り声を上げていると、おしぼりとお茶を持ったナオミさんが現われた。ナオミさんはものすごく上品な感じの、紺色の和服を身に着けていた。僕は飛び起きて、正座をした。 「いらっしゃい。久し振りね」  ナオミさんは目尻をちょっとだけ下げて、とろけるような笑みを浮かべた。僕はとろけそうになった。正一を見ると、正一の目尻も下がっていた。エロ教祖め。  ナオミさんはおしぼりとお茶を、僕と正一の前にきちんと置きながら、「ちゃんと勉強してる? 在日の星たち」と言った。僕と正一はほとんど同時に「はい」と言って、深く頷いた。ナオミさんはまたとろけるような笑みを浮かべた。僕はまたとろけそうになった。  ナオミさんは僕のオフクロの同級生だった。民族学校に通っている頃から評判の美人で、高校を出たあと、『ミス・アイスクリーム』とか『ミス・ぶどう』とか『ミス・金魚』とかに選ばれ、ファッション・モデルになった。朝鮮籍も韓国籍も海外へ行く仕事には邪魔なだけだったので、日本に帰化をした。三十を超える前に、モデルの仕事を辞めた。「色々あったのよ」。むかし、ナオミさんは僕に辞めた理由をそう説明した。そう言った時のナオミさんは、ちょっと色っぽかった。いまは、父親の仕事を継いで、焼肉屋の女店長に収まっている。ちなみに、『ナオミ』という名前は通称名でも芸名でもなく、本名だ。民族学校に通ってる頃は、「日本人みたいだ」と言って、よくイジメられたそうだ。そんな時、ナオミさんをかばったのが僕のオフクロで、二人は親友になった。 「いっぱい入りそうでしょ?」とナオミさんが訊いた。  僕と正一は素直に頷いた。 「すぐに運ぶわね。ちょっと待っててね」  ナオミさんが、個室を出ていった。正一が目尻を下げたまま、「ナオミさんて、独身なんだよな……」と夢見るように言ったので、叩き起こすために、正一の片足を強引に掴《つか》んだあと、アキレス腱《けん》固めを極《き》めてやった。エロ教祖め。  めくるめくディナー・タイムは刻々と過ぎていき、僕と正一はこの上なく幸せな満腹感に満たされていた。ナオミさんは、デザートのライムのシャーベットを運んできてくれたついでに個室に居座り、膝を崩した。そして、僕に、「ねえ、あの話をして」と可愛く言った。もう何度も話している話だったけれど、話さないわけにはいかなかった。  ——僕が高校に上がった年の秋、僕の家族は韓国に行った。目的は済州島へのお墓参りだった。オヤジにとっては、ほぼ五十年ぶりぐらいの帰郷だった。オフクロと僕は初めての上陸だった。僕は一度も会うことなく死んでしまった祖父母の墓に行き、花を捧《ささ》げた。正直言って、墓を見てもなんの感慨も湧かなかった。僕にとっては、それはただの韓国式の、盛り土の墓でしかなかった。  事件は韓国本土に上陸してから起こった。ソウル市内の焼肉屋で晩御飯を食べたあと、タクシーに乗った。僕独りで乗った。オヤジとオフクロのタクシーには、焼肉屋で知り合って仲良くなった日本人観光客の中年夫婦が同乗した。その夫婦は僕たち家族と同じホテルに泊まっていたのだ。  ホテルに向かっている途中、四十がらみのタクシーの運ちゃんに話し掛けられた。 「≪在日≫か?」  僕が韓国語で「そうだ」と答えると、運ちゃんは鼻をフンと鳴らし、唇の端を嫌味に吊《つ》り上げながら、にやけ面《づら》を作った。韓国人の一般的な意識の中には、「≪在日≫は恵まれた日本で、苦労もせずに何不自由なく暮らしている≪韓国人≫」という共通認識があるらしく、中には僻《ひが》み根性を丸出しにして突っかかってくる韓国人がいる。どうやらタクシーの運ちゃんはそういったタイプの人間らしかった。  ホテルに着くまで、タクシーの運ちゃんは、「何歳だ」とか「韓国をどう思う」とか「キムチは食えるのか」とか、どうでもいい質問をしてきて、僕が韓国語で答えるたびに、「なんだその発音は」という感じで鼻を鳴らした。タクシーのメーターは着々と上がり続けていた。そして、僕の怒りのメーターも。  ホテルに着いた。僕がメーターの料金を見て、お札を差し出した。運ちゃんはお札を手にしたあと、素早くメーターのレバーを起こした。料金表示が「0」になった。僕はしばらくのあいだ、あるものを待ち続けた。でも、運ちゃんはまるで僕が存在しないように、振り向きもせずにフロントグラスを見続けている。車回しに続々と入ってきているタクシーが、僕のタクシーにクラクションを鳴らし、発車を促《うなが》し始めた。ホテルのドア・ボーイも、何事かという風に近寄ってきていた。仕方なく、僕は言った。はっきりとした、韓国語で。 「釣りを、よこせ」  運ちゃんは少しだけ顔を横に向け、「は?」という感じの、それはもうにくたらしい表情を浮かべた。僕のメーターが一気に「100」に上がった。僕は日本語で、「死ねぇ!」と叫びながら、運ちゃんの後頭部に右のコークスクリュー・ブローを叩き込んだ。バコン、という音とともに運ちゃんの上半身が前のめりになり、その勢いのまま顔面がハンドルにぶつかって、ゴツンという音を立てた。ざまあみろ。振り向いた運ちゃんの顔は、驚くほどに真っ赤だった。運ちゃんは僕にはリスニング不能の韓国語を、ものすごく大きな声で喚《わめ》き散らし始めた。韓国人は短気だから困る。  運ちゃんがドアを開けて、外に出た。僕も外に出て、素早く戦闘体勢を整えた。運ちゃんが小走りで、僕に向かってきた。右のこぶしを顔の横に振りかざしている。運ちゃんが体を前のめりにさせながら殴りかかってきたので、サイドステップで左によけた。運ちゃんのパンチは空を切り、体は伸びきって隙だらけだった。僕は右のボディ・フックを運ちゃんの肝臓に叩き込んだ。運ちゃんは、「ぐっ」という呻《うめ》き声を上げて、地面に崩れ落ちた。  勝利の余韻《よいん》に浸《ひた》る間もなく、ドア・ボーイに後ろから羽交《はが》い締めにされた。僕が強引に振りほどこうと思った時、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「どうした?」  オヤジだった。僕は羽交い締めを振りほどいたあとに状況を説明しようと必死に暴れたけれど、がっちりと極まっていて、無理だった。羽交い締めを解こうとしないドア・ボーイに、オヤジが韓国語で何があったのかを尋ねた。ドア・ボーイは僕には聞き取れない早口の韓国語でオヤジに何かをまくし立てた。ドア・ボーイは車内での出来事を知らないはずだった。  オヤジの顔色が瞬時に変わった。オヤジは、まだ地面に崩れ落ちたまま恨めしそうに僕を睨んでいる運ちゃんに視線を移し、また僕に戻した。全身から殺気が漂っていた。かなりやばい状況だったので、とりあえず羽交い締めを振りほどくのが先決と思い、めちゃくちゃに暴れようとした瞬間、僕に肝臓へのボディ・フックの打ち方を教えた張本人が、僕の肝臓に思い切り体重の乗ったボディ・フックを打ち込んだ。  まず、カルビを吐いた。ドア・ボーイが腕を離したので、地面に崩れ落ちた。ビビンパを吐いている時、頭の上で、オフクロの「どうしたの?」という心配そうな声が聞こえた。オヤジが答えた。 「こいつ、タクシーの運ちゃんから金をかっぱらおうとして、殴ったらしいんだ」  僕は正しい状況を説明しようと、どうにか立ち上がった。まわりには、すごい人だかりができていた。タクシーの運ちゃん連中やら、ホテルの従業員やら、泊まり客やらが、固唾《かたず》を呑《の》んで僕が陥ってる苦難を眺めていた。そして、僕にさらなる苦難が襲いかかった。 「この子はっ!」  その声とともに、オフクロのビンタが飛んできた。それがいい角度で僕の顎先《あごさき》に入り、首が思い切り横にねじれてしまったので、平衡《へいこう》感覚を失くしてしまい、また地面に崩れ落ちた。ちょうど吐いたビビンパの上だった。そんな僕に追いうちをかけるように、激しい拍手の雨が降ってきて、僕の体を打った。なんとか顔を上げた。ギャラリーが、マエストロの演奏を聴き終わった聴衆のように、わざとらしいぐらい振り幅の大きな拍手をしていた。いつの間にか運ちゃんがオヤジの胸にすがりつき、オイオイと嬉し泣きをしている。それを見るギャラリーの目が潤んでいる。オフクロに握手を求めてる奴もいる。拍手は続く。時々、あからさまな敵意を剥《む》き出しにした視線が僕に突き刺さる。ここは儒教の国だった。  僕は思った。  大人なんか大嫌いだ。韓国なんて潰れちまえ……。  話している最中、顔見知りの従業員たちが、ちょっと遅めの夕食を摂《と》るために、お弁当を抱えて次々と個室に集まってきていた。そして、僕がちょうど話し終えた時に、オフクロがみんなのお茶を持って入ってきたので、みんなはいったん箸《はし》を置いてオフクロに拍手を送った。オフクロはわけが分からず、きょとんとした顔をしていた。拍手が止んだあと、ナオミさんがしみじみといった感じで、言った。 「何度聞いても、いい話ねえ」  そうかな?  オフクロがお茶を置いて、個室を出て行ってすぐ、従業員たちに、「新しい収穫はないの?」と訊かれた。みんなは一様に若かったけれど、人種はバラバラで、≪在日朝鮮人≫や≪在日韓国人≫、中国人や台湾人、そして、日本人という構成だった。僕は、ミトコンドリアDNAの話をすることにした。 「ミトコンドリアDNAっていうのはね、文字通りミトコンドリアが持ってるDNAで、一般的に言われるDNAとは違う、独自のDNA配列が記されてるんだ。ミトコンドリアDNAは突然変異の起こるスピードが速くて、その痕跡《こんせき》が残りやすいから、それを分析することは人類のルーツを探っていく上で、ものすごく重要な手段になりつつあるんだ」  みんなの頭の上に平等に「?」マークが浮かんでいた。日本人の女の子の手が上がった。 「突然変異がどーのこーのっていうあたりから、もうちんぷんかんぷん」 「つまりね、乱暴に言っちゃえば、俺たちの体には自分の直接の先祖から代々受け継いできた独特の『記し』みたいなものが刻まれてるんだけど、その『記し』は相当の時間と、よっぽどのことがないかぎり、ずっと変わらずに子孫にも受け継がれるわけ。だから、その『記し』を目印にすれば、ものすごい『一族結集』ができるんだ」 「なにそれ?」と≪在日韓国人≫の男が訊いた。 「当たり前だけど、俺たちは、無数の枝分かれの末にこの世に生まれてきたわけだろ。ひいひいじいちゃんとひいひいばあちゃんからひいじいちゃんが生まれて、ひいじいちゃんとひいばあちゃんからじいちゃんが生まれて、じいちゃんとばあちゃんからとうちゃんが生まれて、それで、とうちゃんとかあちゃんが色々とやることをやって、俺たちが生まれてきた。暇な人は、ひいひいひいひいひいひいぐらいまで遡《さかのぼ》って考えてくれてもいいけど、とにかく、俺たちの体の中には先祖から受け継いだ膨大な種類の遺伝情報が刻まれてる——」  そこまで言うと、中国人の女の子があとを引き継いだ。「でも、ミトコンドリアDNAっていう独特の『記し』を目印にすれば、自分のルーツを正確に辿っていけるってわけね?」  僕は頷いて、続けた。「さっき言い忘れたけど、ミトコンドリアDNAは親から子に伝わる時、母親のものしか伝わらないんだ。つまり、母親伝いにばあちゃんひいばあちゃん、ていう一本線で辿っていけばいいだけで、途中、父親方の親戚《しんせき》回りをしなくて済むから、面倒臭くなくて辿りやすいんだ。そして、最後には自分のルーツのたった一人の女の人に辿り着くことができる」 「なんか、壮大な話になってきたわね」とナオミさんが言った。 「実際、俺たちの『たった一人の女の人』の子孫は世界中に散らばってるだろうから、集まったらものすごく面白いことになると思うけど。例えば、アメリカの大統領が自分と同じミトコンドリアDNAを持ってるとかね」  僕がそう言うと、≪在日朝鮮人≫の男が、「俺とブラッド・ピットのミトコンドリアDNAは間違いなく同じだ」と言ったので、みんなからブーイングが湧き起こった。僕はブーイングが収まるのを待って、言った。 「ミトコンドリアDNAを使った最近の調査では、本州に住んでる日本人の約五十パーセントは、韓国と中国に多いタイプのミトコンドリアDNAを持ってることが分かったんだ。日本人固有のタイプのミトコンドリアDNAを持ってる人は、約五パーセントしか存在しなかった」 「それって、どういうこと?」と日本人の女の子が訊いた。 「約二千年前、大陸から多くの弥生人《やよいじん》て呼ばれる人たちが日本に渡ってきた。本当に多くのね。で、気がついたら、本州では≪日本人≫はマイノリティになってたってことだよ」 「でも、韓国とか中国のミトコンドリアDNAを持ってても、その人は≪日本人≫なわけでしょ?」と日本人の女の子は言った。 「日本で生まれて、日本で育って、日本の国籍を持ってるからね。ただそれだけのことだよ。君がアメリカで生まれて、アメリカで育って、アメリカの国籍を持ってたら、≪アメリカ人≫だったようにね」 「でも、ルーツは国籍に縛られない」と正一が言った。 「ルーツって、どこまで遡って考えればいいわけ?」と日本人の女の子は言った。「うち、家系図とかないんだけど」  短い笑いが起こった。笑いが収まったあと、正一が言った。 「面倒臭いから、いっそ途中は省いて『たった一人の女の人』にまで遡っちゃえばいいんだ。そして、『たった一人の女の人』が生きてた時代には、国籍も、何人《なにじん》なんていう別《わ》け隔《へだ》ても、なかった。俺たちは自分たちのことを、その自由な時代の、『ただの子孫』と思えばいいんじゃないかな」  場が静まり返った。みんながそれぞれに何かを反芻《はんすう》していた。僕は言った。 「そもそも、国籍なんてマンションの賃貸契約書みたいなもんだよ。そのマンションが嫌になったら、解約して出て行けばいい」 「解約なんて、そんなことできるの?」と日本人の女の子が訊いた。 「日本の憲法でいえば、第二十二条の二項にちゃんと書かれてるよ。『何人《なんぴと》も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵《おか》されない』。憲法の条文の中で、一番好きな条文なんだ。カッコいいからね」 「でも」と≪在日朝鮮人≫の男が言った。「俺たちが色々なことを知ってたって、差別する側が知らなきゃ意味ないんじゃないかな」 「いや、俺たちが知っとけばいいんだよ」と僕は言った。「国籍とか民族を根拠に差別する奴は、無知で弱くて可哀想《かわいそう》な奴なんだ。だから、俺たちが色々なことを知って、強くなって、そいつらを許してやればいいんだよ。まあ、まだ俺はその境地にはぜんぜん達してないけどね」  笑い声が上がった時、ちょうどオフクロが来て、みんなに言った。 「そろそろ休憩終わりよ」  みんなと、近いうちの再会を約して別れた。時間も遅かったので、僕と正一も切り上げることにした。エレベーターの前で、ナオミさんに御馳走《ごちそう》になったお礼を言うと、ナオミさんは「また面白い話を聞かせてね」と言い、微笑みながら僕の頬を優しく撫《な》でてくれた。勉強しといて良かった。知は力なり。エレベーターの扉が閉まった瞬間、嫉妬《しつと》に狂ったエロ教祖に、脇腹に思い切りパンチを食らった。  帰宅したのはかなり遅い時間だったけれど、きちんと日課をこなすことにした。  トレーニング・ウェアに着替え、ランニングに出た。十キロの距離を走り、三分一ラウンドのシャドー・ボクシングを、あいだに一分の休憩を挟みながら十ラウンドこなした。最後に、腕立て伏せと腹筋を五十回ずつやった。  ストレッチで全身をほぐしたあと、シャワーを浴びた。鏡に映っている腹筋が、六つの四角に綺麗に割れてるのを見て、ちょっとナルシスティックな気持になった。  部屋に戻り、ギターの練習を始めた。最近、ようやく「F」をきちんと押さえられるようになった。一時間半の練習の締め括《くく》りに、チェロキー・インディアンと黒人のハーフのロックスター、ジミ・ヘンドリックスがウッドストックで弾いた、『スター・スパングルド・バナー』をCDで聴いた。ジミヘンは、マイノリティばかりが前線に送られて次々と死んでいくヴェトナム戦争に対して抗議を表わすために、アメリカ国歌をギターでこんな風に弾いた。   ギーギーギュルルルルギリギリギリ   ウオーンウオンギューンギューン   キャーッキャーッキャーッ   ガリガリガリガーッガーッ  何度聴いても、ものすごい音だった。マイノリティの声は上のほうには届かなくて、だから、何かの手段を持って声を大きくするしかない。僕もいつか、この国の国歌をものすごい音で弾きたくなる時が来るかもしれない。その時のために、僕はギターを練習している。  机に座った。まず、グリーンベレーの格闘マニュアルに目を通したあと、目を閉じ、頭の中で格闘シミュレーションをやって、難なく三人倒した。  次に、かなり眠たかったけれど、「お勉強」もきちんとこなすことにした。最近は、むかしから日本に流布《るふ》されている『単一民族神話』に関して、お勉強をしている。なかなか楽しいお勉強で、DNAなんて言葉がない時代の学者や政治家たちが、オリジナリティに富んだ嘘を好き勝手に言い、他の人種を差別していたのを学べるのだ。 『単一民族神話』の全体像を把握《はあく》しようと、関係書物や、図書館で集めてきた資料のあれこれに目を通した——。 [#ここからゴシック体]  単一、差別、同化、排斥、純血、混血、異質、均質、雑種、大和民族、異民族、血統、蝦夷、熊襲、琉球、国体、国粋、攘夷、純潔、皇国史観、八紘一宇、万世一系、大東亜共栄圏、富国強兵、一視同仁、日鮮一体、日鮮同祖、日韓併合、皇民化、臣民、総督府、創氏改名、領有、帝国、植民、統合、侵略、征服、傀儡、服従、抑圧、支配、隷属、隔絶、隔離、雑婚、雑居、混合、先住、渡来、差異、偏見、異同、増殖、繁殖、異人種、劣等人種、優等人種、血族、膨脹、領土、統治、搾取、略奪、愛国、優生学、同胞、階層、異族、融合、和合、野合、排外、排他、排除、殺戮、殲滅…… [#ここでゴシック体終わり]  キレた。ノルウェイ人になることにした。  ノルウェイ行きの資金を調達するために、身のまわりのものを売っ払おうと、部屋の中の金目のものを掘り起こそうとしてバタバタとやっているところへ、オヤジが部屋のドアを開けた。 「何時だと思ってるんだよ」 「ノック」 「堅いこと言うなよ」  オヤジは部屋に入ってきて、僕のベッドに腰を下ろした。僕は構わず作業を続けた。 「ところで、なにやってんだ?」 「日本を出て、ノルウェイに行くんだ」 「いきなり、どうしたんだよ」 「ノルウェイに行って、ノルウェイ人になって、ノルウェイ語を覚えて、汚い日本語を忘れるんだ。もううんざりなんだよ。それで——」 「落ち着けよ」 「それで、可愛いノルウェイの女の子と結婚して、可愛いハーフの子供を生んで、幸せな家庭を築くんだ」 「なんだよ、けっこう冷静に考えてるな。でも、どうしてノルウェイなんだ?」 「日本からできるだけ遠くに離れるんだ」 「日本の裏側は南米だぞ」 「あんまり暑いのは苦手なんだ」 「とことん冷静だな」  オヤジは、僕が床に積み上げておいた本の山に手を伸ばし、一番上にあった『ツァラトゥストラかく語りき』を手にした。 「ニーチェなんて分かるのかよ」とオヤジが訊いた。 「少しだけ」 「知ってるか、ニーチェってちょっと頭おかしかったらしいぞ」 「聖人|面《づら》した不倫野郎よりマシだよ」  オヤジが殺気を放った。 「マルクスの悪口は言うな。あいつはいい奴なんだよ」  殴られても嫌だったから、口答えはしなかった。それからしばらくのあいだ、オヤジは黙って僕の作業を見つめていた。殺気は感じなかった。無気味になったので、手を止めてオヤジのほうを見ると、オヤジは真剣な眼差しを浮かべていた。目が合った。オヤジは言った。 「ノ・ソイ・コレアーノ、ニ・ソイ・ハポネス、ジョ・ソイ・デサライガード」 「は?」 「スペイン語だよ。俺はスペイン人になろうと思った」 「…………」 「でも、ダメだった。言葉の問題じゃないんだよな」 「そんなことないよ。言語はその人間のアイデンティティそのもので——」  オヤジが僕の言葉を遮った。「確かに理屈はそうかもしれないけど、人間は理屈じゃ片付かない部分で生きてるんだ。まあ、おまえにもいつか分かるよ」  僕は机の椅子に腰を下ろした。オヤジはベッドから腰を上げて机のそばに来た。そして、机の上に広がっている資料を手に取り、簡単に目を通したあと、言った。 「こういう『暗闇』を知っておくのも悪くはない。暗闇を知らない奴に光の明るさは語れないからな。でも、おまえのお気に入りのニーチェが言ってるぞ、『誰であれ、怪物と戦う者は、その過程においてみずからが怪物にならぬよう注意すべきである。長いあいだ奈落《ならく》をのぞきこんでいると、奈落もまたこちらをのぞきこむものだ』ってな。だから、気をつけろよ」  オヤジが僕の背後の窓ガラスのほうを見ながら喋っていたので、窓ガラスにあんちょこが貼ってあるのかと思い、後ろを振り返った。あんちょこは貼ってなかった。深夜の暗闇が貼りついていた。  顔を戻すと、オヤジが右のパンチを撫でるように僕の頬に当てた。 「おまえ、最近理屈っぽくなってるぞ。むかしみたいに悪さしろとは言わないけど、もっと遊べよ。おまえのお気に入りのニーチェが言ってるぞ、『誰であれ、若いうちは、思う存分遊ぶべきである。長いあいだ活字の森にばかりいると、そこから脱け出られなくなるものだ』ってな」 「……嘘だろ?」  オヤジは、へへへ、と笑いながら、資料を机の上に放り投げた。 「もう寝ろよ」  オヤジが机のそばを離れようとしたので、慌てて訊いた。 「さっき、スペイン語でなんて言ったの?」  オヤジは机の上に転がっていたボールペンを手にして、資料の上にスペイン語の文章をさらさらと書いた。 「あとは自分で調べろ」  オヤジがドアの前まで行った時、訊いた。 「どうして、スペイン人なの?」  振り返ったオヤジは、真顔で、きっぱりと答えた。 「スペインには美人が多いって聞いたからだ」  部屋を出たオヤジは、豚がひきつけを起こした時に上げるようなファルセット・ボイスで、ビーチ・ボーイズの『夢のハワイ』を歌い始めた。   ゴゥ・トゥ・ハァーワァーイィ   (ハワイに行こう!)   ゴゥ・トゥ・ハァーワァーイィ   (ハワイに行こう!)   ドゥ・ユー・ワナ・カム・アロング・ウィズ・ミィー   (俺と一緒に行きたくねえかい?)  クソオヤジめ……。  僕は机の上の本と資料を床に下ろした。とりあえずは、そこから始めることにした。そして、眠りに落ちる前に桜井を思うことにした。 [#改ページ]     4  あの夜からちょうど一週間後の金曜日の夜、初めて桜井に電話をした。  電話に出た桜井はいきなり、言った。 「あのね、アメリカのキャリア・ウーマンのあいだではね、『男にナメられないためのマニュアル』みたいなのがあって、その中に、週の後半にかかってきたデートの誘いは断れ、っていう鉄則があるんだって」  僕はまだデートに誘っていなかった。もちろん、誘うつもりではいたけれど。 「どうして?」と僕は訊《き》いた。 「男は、週の前半は本命の女の週末の予定を押さえるのに忙しくて、その本命の女に断られると、まあこいつでもいいか、って週の後半を使って、あまり大切に思ってない女に誘いをかけるんだって。その誘いを受けると、ナメられて|都合のいい女《ヽヽヽヽヽヽ》と思われちゃうから、断らなくちゃいけないの。分かる?」 「…………」 「でも、わたし、マニュアルって嫌いだから、そういうのはぜんぜん気にしないけど」  絶対、気にしてるに決まってる。 「今度からは気をつけるよ」 「絶対よ」  やっぱり。  日曜日のデートが決まった。  日曜日。  午後一時ぴったりに、待ち合わせ場所の渋谷駅東口の改札に着いた。まわりを見回しても桜井の姿は見えなかった。改札口の脇に立って、桜井を待った。  十分経過。僕は長期戦を覚悟して、キオスクでニューズウィークを買い、読み始めた。カンボジアのシアヌークの身辺警護をしているのが北朝鮮の特殊部隊出身のボディガードだ、なんてちょっと興味深い記事を読んでいる時に、僕の体にドンとぶつかってくる柔らかい物体があった。覚えのある衝撃だった。  顔を上げると、桜井の無防備な笑顔があった。 「遅れてごめんね」 「遅れたうちに入らないよ」  桜井は笑みを深め、訊いた。 「これから、どうする?」  この前、電話を切ったあとに気づいたのだけれど、僕たちは会う約束だけを取りつけて、何をするかについてはまったく話し合っていなかった。きっと、僕たちは、ただ会いたかったのだろう。  僕が、映画でも観ようか、と提案しようとすると、桜井が先に口を開いた。 「わたし、満員電車みたいに混んでる渋谷の街をブラブラしたり、初デートの記念にお互いの腕にタトゥーを入れたり、晩御飯は混んでるだけが取り柄のまずいイタ飯屋かなんかに入ったり、狭い犬小屋みたいなカラオケボックスに入ったり、っていうのはイヤよ、絶対に」  僕は慌てて首を横に振った。 「そんなことは考えてなかったよ。映画でも観ようかと思ってたけど」 「いま、なんか観たい映画ある?」 「特にないけど」 「それじゃ、違うことしようよ」 「なに?」 「わたしについて来る?」と桜井は挑むように、言った。  僕は頷《うなず》いた。 「それじゃ、行こうか」  桜井はそう言って、切符売り場を指差した。僕と桜井は券売機に向かって、歩き出した。僕がニューズウィークを円筒状に丸め、片手で握るようにすると、桜井は楽しそうな笑みを浮かべて、言った。 「棍棒《こんぼう》みたいに見えるよ。わたしを守ってくれてるの?」  僕はちょっと離れた場所に置いてあるゴミ箱に、ニューズウィークを放り投げた。うまい具合にゴミ箱に収まった。僕は言った。 「棍棒なんて必要ないよ」  桜井は嬉《うれ》しかったのか、思い切り体当たりをしてきた。僕は思い切りよろけた。桜井は眉《まゆ》をひそめながら、僕を見ていた。 「棍棒、拾ってこようか?」  僕と桜井は山手線の円の半分を辿って、有楽町《ゆうらくちよう》に出た。  桜井は駅を出たあと、日比谷方面に足を向けた。桜井はパープルのブルゾンと細身のホワイト・ジーンズ、そして、ベージュのトレッキング・ブーツという姿で、丸の内のビル街を颯爽《さつそう》と歩いていた。黒いジャケット、白いTシャツ、普通のジーンズ、ローファーという恰好《かつこう》の僕は、つべこべ言わずに黙って桜井のあとをついていった。  僕が連れて行かれたのは、日比谷のお濠《ほり》近くのビルの最上階にある、大企業が経営する美術館だった。桜井は馴《な》れた足取りでビルの中に入って行き、エレベーターに乗り込んだ。僕は美術館に入ったことは、一度もなかった。でも、画集はよく眺めていた。正一がよく僕に画集を貸してくれるのだ。 「よく来るの?」  エレベーターに乗ってすぐ、僕は訊いた。桜井は、ううん、ときっぱり首を横に振った。 「はじめて。いつも入ってみようって思うんだけど、独りじゃなかなか入りにくくて。入るの、イヤ?」  僕は首を横に振った。  エレベーターが美術館のあるフロアに着くと、桜井はさっさと、切符を売っている窓口に向かい、自分の分の切符を買ってしまった。僕がお金を払う暇はなかった。  公開されていたのは、フランス画壇で活躍していた画家たちの絵で、けっこう有名どころが揃《そろ》っていた。ルオー、ブラック、シャガール、ピカソ、ダリ、などなど。 「好きな人、いる?」  美術館に足を踏み入れてすぐに、桜井に訊かれた。 「ルオーとシャガール」 「誰それ?」桜井は悪戯《いたずら》っぽく笑った。「わたし、絵のことぜんぜん分からないの」  僕と桜井の絵の見方はひどく対照的だった。僕は一枚一枚の絵をきちんと眺めていくのに対して、桜井は瞬間の観た目で絵の好悪《こうお》を決めるらしく、気に入った絵の前ではジッと立ち尽くし、そうでないものの前は風のように通りすぎて行った。その姿は、見ていてとても分かりやすく、気持良かったので、僕も真似《まね》をすることにした。  僕はルオーの『老いた王』や、シャガールの『横たわる詩人』の前でだけ立ち止まった。そうやって観ていくうちに、かなり先に行っていた桜井との距離が縮まった。  桜井はダリの絵の前で立ち止まり、微笑みを浮かべていた。桜井が観ていたのは、『たそがれの隔世遺伝』という絵で、有名なミレーの『晩鐘』を再構築したものだった。再構築とは言っても、僕の目には趣味の悪いパロディにしか見えなかったけれど。だって、例の黄昏時《たそがれどき》に祈りを捧《ささ》げている男女の男のほうの顔は骸骨《がいこつ》になっていて、女のほうの体には槍《やり》みたいなものが突き刺さっているのだ。そして、田園風景は荒涼とした岩場に変わっていた。 「最高よね」  桜井が僕の顔を見て、言った。僕は曖昧《あいまい》に頷いた。桜井は不服そうだった。桜井は多くの時間をダリの絵の前で過ごした。鼻先が絵についてしまいそうなほど体を乗り出して眺めたり、クスクス笑いながら眺めたり、時々、はぁ、とため息をつきながら眺めていた。僕はそんな桜井をずっと眺めていた。ちっとも飽きなかった。  ダリの最後の一枚の前に立って、桜井は言った。 「この人、わたしに喧嘩《けんか》売ってるのよね。『おまえにこの絵が分かるのか?』って」  最後の一枚は、人間の体が引き出しになっていて、自在に開け閉めできるのを描いた絵だった。 「もう意味なんてぜんぜん分かんないんだけど、喧嘩を売られてるのは分かるから、ものすごくドキドキする。ほら」  桜井はそう言って僕の手を掴《つか》んで引き寄せ、自分の胸の真ん中に僕の手のひらを当てた。本当だった。心臓がドクンドクンと速く、力強く、胸を打っていた。ふいに桜井が僕の胸の真ん中に手のひらを当てた。 「杉原のも、すごく速く打ってるよ」  桜井の鼓動がさらに速くなった。僕の鼓動はもっともっと速くなっていたのだけれど、それは他の人たちが僕と桜井のまわりに集まって、僕たちのことをジロジロと眺め始めたからだ。  僕と桜井はほとんど同時に手を離し、ダリの絵の前を離れた。桜井は楽しそうにクスクスと笑っていた。僕はひどく恥ずかしかったので、気をそらそうと、桜井に言った。 「この前新聞に載ってたけど、ダリって小学生の男の子に人気があるらしいよ」  桜井は笑顔のまま、ふーん、と言ったけれど、すぐに真顔になって、僕の脇腹にパンチを入れた。 「悪かったわね、小学生の男の子並みの感性で」  出口付近で売っていたパンフレットを二部買って、一部を桜井に渡した。桜井は素直に、ありがとう、と言って、パンフレットを受け取った。そして、楽しかったね、と言った。僕は素直に頷いた。  日比谷公園に行き、あてもなく散歩をしたあと、ベンチに座って何をするともなく時間を過ごした。とても気持の良い春の夕暮れだった。 「ねえ、訊いていい?」 「いいよ」 「家族構成は?」 「両親と僕の三人家族。桜井は?」 「うちは両親とお姉ちゃんの四人家族。田舎は?」 「……田舎はない。桜井は?」 「うちはお父さんの実家が関西で、お母さんが九州。杉原のお父さんはなにをしてる人?」 「……しがない自営業者だよ。桜井のお父さんは?」 「しがないサラリーマン。これまで何人の女の子とつきあった?」 「一人」 「いつのこと?」 「中学二年の時に一ヵ月だけ」 「短いね。どうして、別れたの? 答えたくなきゃいいけど」 「別にかまわないよ。デートの約束をすっぽかして、それでパー」 「なんですっぽかしたの?」 「仲のいい男友達に、旅行に行こうって誘われたんだ。その日程がデートの日とかぶってたんだけど、そっちを優先した」 「なにそれ」と桜井はひどく呆《あき》れたように言った。「どうしてそんなことするわけ?」 「中学生の男って、そんなもんなんだよ」と僕は言い訳がましく言った。「彼女より男友達のほうを選ばなくちゃいけないんだ、基本的に。男友達より彼女を選ぶような奴は『裏切り者』って呼ばれて、迫害を受ける」 「バカみたい」 「いまでは、僕もそう思う」 「ところで、旅行ってどこに行ったの?」 「名古屋」 「なにしに?」 「……観光だね」 「変なの」  僕と僕を誘った友人は、名古屋のパチンコ店を制覇し、『パチンコ長者』になって東京に帰って来よう、と誓い合って、普通列車に揺られながら名古屋に向かった。旅行はとても楽しかった。僕たちはパチンコの勝ち金でホテルに泊まり、おいしい味噌《みそ》煮込みうどんを食べ、帰りは新幹線のグリーンに乗った。三泊四日の旅だった。もちろん、平日に学校を休んで行ったので、帰って来てオヤジに殴られた。 「彼女、怒ったでしょ?」と桜井が訊いた。 「二週間無視され続けたあと、一言、最低、って言われた」  桜井は、それ当然よ、と言って、僕の肩に軽いパンチを入れた。会話が途切れた。僕が話題を探していると、桜井が唐突に話し始めた。 「わたしはね、これまで三人の男の子とつきあった。初めは小学校五年の時でね、相手はクラスメイトで、目がクリッとしたちょっとトム・クルーズ似の男の子だった。ホワイト・デーにプレゼントをくれなかったから、別れちゃった。若かったのね、わたしも。次は中二の時で、相手は同じ中学のいっこ上の先輩で、水泳部のキャプテンと生徒会長を掛け持ちしてた人。別れたのはね、日曜日に家に呼ばれて、赤い競泳水着渡されて、これを着て欲しい、って真顔で言われたから。その時は、思い切りほっぺをひっぱたいて、帰ってやったわ。でもね、いまから考えたら、着てあげても良かったかな、って。たぶん、キャプテンと生徒会長の掛け持ちのプレッシャーで頭おかしくなっちゃってたのよ。ものすごく真面目な人だったから。耳のうしろに十円ハゲもできてたし。三人目はね、高一の時なんだけど、友達に紹介されたケイオーの大学生で、代議士の息子でね、ものすごいイヤな奴で、ものすごいバカな奴だった。俺のまわりは低能ばっかりだ、なんて平気で言う奴だったのよ、そいつ」 「どうしてそんな男とつきあったんだ?」と僕は当然の疑問を口にした。 「その頃、自信満々の男に弱かったのよ」と桜井はあっさり言った。「女って、一度はそういう時期があるのよ、自信満々の男に弱い時期が」 「ふーん」  桜井は続けた。 「そいつとはね、二週間で別れた。原因は、二人で六本木を歩いてたら外国の人に英語で話し掛けられたからなの」 「なにそれ?」 「外国の人は、たぶん、道を尋ねてたと思うんだけど、とにかく、英語でそいつに話し掛けてきたわけ。エクスキューズ・ミー、って。エクスキューズ・ミーまではそいつの顔もにこやかでね、自信満々だった。でも、すぐに難しい単語がいっぱい出てきて、そいつの目があちこちに飛び始めたのね。耳から煙が出ないかしら、ってわたしは興味深く見守ってたんだけど、そいつはわたしの視線に気づいて、どうにかさっきまでの自信満々な感じを取り戻したあとに、外国の人に向かって、言ったの。なんて言ったと思う?」 「想像もつかないよ」と僕は言った。 「アーハ、って。ものすごく自信満々に、アーハ、って。その時、わたしは気づいたのよ。こいつはただのアホなんだ、って」  彼女は言いながら、クスクス笑っていたけれど、僕は笑えなかった。彼女と一緒の時に外国人に話し掛けられないことを祈った。彼女は笑顔のまま、付け加えた。 「普通に、アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ、って言えば良かったのにね」  僕は肝に銘じた。桜井の瞳《ひとみ》に、悪戯っぽい色が浮かんだ。 「わたしが、つきあってた男の子たちとどこまで行ったのか、訊きたくない?」  僕は少し迷ったあと、首を横に振った。 「聞いてもむかつくだけだ」  桜井は顔に柔らかな笑みを広げた。そして、バカみたい、と言って、僕の肩に思い切りパンチを入れた。僕が本気で痛がっているところへ、ふいに前方から犬が姿を現わし、トコトコと僕たちに向かって歩いてきた。雑種らしいその犬は、軽く尻尾《しつぽ》を振りながら近寄ってきていた。僕が頭を撫《な》でてやろうと身を乗り出した時、桜井が、「うぅぅぅぅ」と、低い唸《うな》り声を上げた。犬はその声に反応して立ち止まり、耳を折り曲げたあと、すいませんでした、という感じの色を目に浮かべて、来た道をとぼとぼと帰っていった。僕が桜井を見ると、桜井は、「邪魔者は寄せつけるな。これがデートの鉄則よ」と言って、ニッコリ微笑んだ。  日比谷公園を出たあと、CDショップに行き、お互いに気に入っているCDを薦《すす》め合い、買った。僕が薦めたのはブルース・スプリングスティーンの『トンネル・オブ・ラヴ』というCDで、僕の特にお気に入りの一枚だった。桜井が僕に薦めたのはホレス・パーランというジャズ・ピアニストの『アス・スリー』というCDだった。僕はジャズをほとんど聴いたことがなかった。 「お父さんがジャズが好きでね、子供の頃からよく聴かされたの」と桜井は薦める時に、言った。「これ、すっごくカッコいいよ」  銀座をブラブラして、目についた洋風の定食屋に入り、晩御飯を済ませた。食後の散歩で勝鬨《かちどき》橋まで歩き、潮の匂いを嗅いだ。 「海に行きたいね。綺麗《きれい》な海」と桜井は言った。  僕は頷いた。 「できたら、近いうちに行こうよ」  有楽町駅の改札で別れた。桜井は、またね、とそっけない言葉だけを残して、僕と反対方向のホームへと上がっていってしまった。僕は、日比谷公園の犬の足取りでホームへ繋《つな》がる階段を上がった。ホームの適当な場所で立ち止まり、ぼんやり下を向いていると、視線の上のほうに、向かい側のホームでせわしなく動いている人影が映った。視線を上げた。  桜井が、いまにも飛び上がりそうなほどの爪先《つまさき》立ちで、僕に向かって手を振っていた。ふたつのホームの多くの乗客の視線が、僕に集まっていた。僕が桜井の行為に応《こた》えられずにいると、乗客たちの苛立《いらだ》ちのようなものが伝わってきた。電車がホームに入ってくる、というアナウンスが流れると、近くでいくつもの舌打ちの音が聞こえた。僕は恥ずかしさを堪《こら》えながら手を上げ、桜井に手を振り返した。乗客たちの安堵《あんど》感が伝わってきた。桜井のほうのホームに電車が滑り込んできて、桜井の姿を消した。僕は上げていた手をさりげなく下ろしたあと、それまでいた場所から急いで移動を始めた。僕に目を向けている人たちはみんな、初孫が初めて歩いている姿を見るような目で僕を見ていた。  家に帰ると、オフクロが家出から戻ってきていて、居間でオヤジとチェスをやっていた。 「もしかして、デート?」とオフクロがクイーンを進めながら、僕に訊いた。「チェック」  追い詰められたオヤジは、まいったなあ、なんて言いながらも、めちゃくちゃ機嫌が良さそうだった。 「ノーコメント」と僕は答えた。 「いい加減なことだけはしちゃダメよ」とオフクロが言った。 「分かってる」  オヤジが盤面から顔を上げた。夏休み初日の小学生みたいにキラキラとした瞳で微笑んでいた。オヤジが僕に向かって言った。 「まいったよ、逃げる手が見つからないんだ。こいつ、強くてさあ」  ずっと寂しかったのはわかるけれど、あと数年で還暦を迎える目の前の男が、ひどくわびしく見えた。  すべての日課を済ませたあと、『アス・スリー』を聴いた。本当にカッコ良かった。眠るまでに、三回聴いた。  翌日の月曜日、誕生日以来ずっと姿が見えなかった加藤が、昼休みに僕の教室に姿を現わした。 「よっ、色男」  僕の隣の席に座りながら、加藤はそう言った。 「なんだよ、おまえのその色は?」と僕は言った。  加藤の顔は真っ黒に日焼けしていた。 「親父の誕生日プレゼントで、サイパンに行ってた。楽しかったぞ」 「いいご身分だな」 「ところで」加藤はにやけた笑みを顔に貼りつけた。「もうやったのか?」 「また、鼻、曲げてやろうか?」  加藤は慌てて手を鼻にあて、防御姿勢を整えた。「勘弁してくれよ」 「おまえ、彼女のこと知ってるのか?」と僕は訊いた。  加藤は鼻に手をあてたまま、首を横に振った。 「興味があったから、おまえたちがいなくなったあとに、まわりの連中に色々あたってみたけど、誰も知らなかった。安心しろ、俺のまわりの連中が知らないってことは、きちんとした子だってことだ。それにしても、おまえ、どうやってあんな可愛い子とお知り合いになれたんだよ」 「俺にもよく分からないんだ。かなり不思議な子でさ、突然現われて、気がついたら向こうの世界に引き摺《ず》り込まれてた」  加藤はようやく鼻から手を離し、真顔で言った。 「もしかして、雪女かもしれないな。それか、おまえがむかし助けた鶴の化身か……」 「おまえ、日焼けのし過ぎで、頭の中までカラカラになっちまったんじゃないのか」 「それは生まれた時からだ」と加藤はきっぱり言った。「おまえが気になるなら、俺が色々調べてやってもいいぞ。その子、高校生なんだろ? 高校の名前が分かりゃ、ツテを辿《たど》ってたいていの情報は手に入る」  僕は少し迷って、首を横に振った。「いいや、彼女が何者だろうと、関係ねえ」 「そうだよな、関係ねえよな」加藤はなぜか嬉しそうにそう言って、続けた。「それにしても、なんか映画みたいな話で楽しそうじゃねえか」 「ジャンルが、ミステリとかサスペンスじゃなきゃいいけどな」  昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。加藤が席から腰を上げた。 「第三者としてはホラーかオカルトのほうが楽しめるけど。チンポでもちょん切られてくれたら、すげえ盛り上がるぞ」加藤はそう言って、僕の肩を叩《たた》いた。「健闘を祈る」  毎週月曜日の夜の桜井への電話が、僕の習慣に加わった。ゴールデン・ウィークを越えたあたりから、桜井への電話は、僕の日課の中に加わっていた。  僕たちは休日のほとんどを、お互いのために使った。そして、いつも会っているうちに、僕たちのあいだにはある共通認識が生まれていた。それは、「カッコいいものを探すこと」というものだった。  僕たちはお互いに色々な本やCDや映画を薦め合い、「カッコ良かったか、悪かったか」というふたつの基準だけを設け、ひとつひとつ選り分けていった。  桜井は僕が薦めるたいていのものを、「カッコいい」と言ってくれた。ブルース・スプリングスティーン、ルー・リード、ジミ・ヘンドリックス、ボブ・ディラン、トム・ウェイツ、ジョン・レノン、エリック・クラプトン、マディ・ウォーターズ、バディ・ガイ……。でも、ニール・ヤングだけは桜井の趣味に合わなかった。理由を訊《き》いた。 「だって、歌が下手なんだもん」  桜井が薦めるたいていのものを、僕はカッコいいと思った。マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス、オスカー・ピーターソン、セシル・テイラー、デクスター・ゴードン、ミルト・ジャクソン、エラ・フィッツジェラルド、モーツァルト、リヒャルト・シュトラウス、ドビュッシー……。でも、ジョン・コルトレーンだけは僕の趣味に合わなかった。理由を訊かれた。 「暗すぎる」  僕が薦めたブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳《てつけん》』は、特に桜井のお気に入りになった。おかげで、僕はよく回し蹴《げ》りを食らうことになった。桜井に薦められた『カッコーの巣の上で』は、特に僕のお気に入りになった。そのことを桜井に告げると、おかげで、ジャック・ニコルソンの出演作品をイヤというほど観せられる破目になった。桜井はジャック・ニコルソンが気に入っていた。理由を訊いた。 「変で、カッコいいから」  桜井も変で、カッコ良かった。  本は僕の苦手分野だった。僕は小説の類《たぐい》を滅多に読まず、人類学とか考古学とか生物学とか歴史学とか哲学といった、堅くてあまり面白いと言えないような本ばかり読んでいたので、薦めようがなかったのだ。正一に薦められて読んだ小説は、たいてい日本の古い小説で、そのほとんどを桜井は読破していた。桜井は本好きの父親の影響で、たくさんの本を読んでいた。  僕は桜井に薦められて、色々な小説を読んだ。ジョン・アーヴィングやスティーヴン・キングやレイ・ブラッドベリは、僕のお気に入りの小説家になった。でも、特に気に入ったのはジェイムズ・M・ケインの『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』と、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』だった。そのことを桜井に告げると、桜井は得意気に、「絶対気に入ると思ったよ」と言った。  僕たち二人で「発掘」したものもあった。ダシール・ハメット、アラン・シリトー、ジャック・フィニィ、レイモンド・カーヴァー、『炎のランナー』、『太陽がいっぱい』、『ハリーの災難』、『酒とバラの日々』、『ワイルドバンチ』、エルビス・コステロ、R.E.M.、T・レックス、ダニー・ハサウェイ、クロノス・クァルテット、グレッキ、テレンス・ブランチャード、エゴン・シーレ、ワイエス、ターナー、リキテンシュタイン……。  それらの発掘作業はとても楽しかった。発掘方法は簡単で、「本屋やCDショップやレンタルビデオ屋に行って二人の直感で選ぶ」、ただそれだけのことだった。僕たちは本の表紙やCDジャケットやビデオのパッケージを見て、「何か」を感じ取ったものだけを選んだ。でも、僕たちの直感の打率は三割ちょうどのアベレージ・ヒッター程度のものだった。当然ながら空振り、凡打も多く、多くの時間とお金を無駄にした。それでも、二人での発掘作業は楽しかった。  六月に入ってすぐの日曜日、銀座のファストフードの店で、桜井が唐突に切り出した。 「いまから、うちに遊びに来ない?」  僕が戸惑っていると、桜井は言った。 「うちにはね、お父さんの趣味でAVルームがあるの。そこで、一緒に音楽を聴いたり、映画を観たりしようよ。そしたらすぐに感想を言い合えるじゃない」 「男が遊びに行ったら、お父さん気にするんじゃないかな」 「うちはそういうのぜんぜん大丈夫な家なの」と桜井は言って、硬い感じの微笑みを浮かべた。「お姉ちゃんのボーイフレンドなんか、よく晩御飯を食べにきてるし」  桜井はこれまでになく真剣な眼差《まなざ》しで僕を見ていた。僕は、いいよ、と言って、頷いた。桜井は、断られたらどうしようかと思っちゃった、と言って、ホッとしたように、ふうと短く息を吐いた。  桜井の家は、世田谷《せたがや》の高級住宅地にあった。  桜井のお父さんはふさふさした髪を真ん中から分けていた。高そうなダンガリーのシャツを着て、いい感じに色落ちしたジーンズをはいていた。そして、娘の男友達を見てもなんの動揺も示さず、優雅に微笑んで、いらっしゃい、と言った。  居間に通され、ふかふかしたソファに座った。桜井によく似た上品な感じのお母さんが紅茶を持って現われ、「いらっしゃい、娘をよろしくね」と言いながら、紅茶をテーブルの上に置き、居間から出ていった。 「杉原君はどこの高校に通っているの?」とお父さんに訊かれた。  僕が高校名を言うと、お父さんは、ふーん、と言い、「きっと優秀な高校なんだろうね」と付け加えた。僕は、「いえ、そんなことないです」と真実を告げた。お父さんの隣に座っていた桜井が、目立たないように、クスリと笑った。  お父さんは話し好きのようで、しばらくのあいだ、色々な話につきあわされた。お父さんは東大を出ていた。お父さんは学生運動の元闘士だった。お父さんはものすごく有名な商社に勤めるサラリーマンだった。お父さんはジャズが大好きだった。お父さんは黒人のことを≪アフリカン・アメリカン≫と呼んだ。お父さんはインディアンのことを≪ネイティヴ・アメリカン≫と呼んだ。お父さんは日本が嫌いだった。 「杉原君はこの国が好きかい?」  桜井がトイレのために席を立ってすぐ、お父さんがそう訊いた。僕が返事に困っていると、お父さんは続けた。 「僕なんか、仕事で世界を飛び回ってるけど、こんなにポリシーのない国も珍しいよ。海外で、自分のことを≪日本人≫て言うのが恥ずかしいぐらいだよ。僕は日本の政治に対する積極的な拒否を表わすために、選挙には行かないんだ。投票に行く時間があったら、それを家族と過ごすために使うよ。そうすることが結局は、日本が——」 「『日本』ていう——」僕はお父さんの言葉を遮った。「国号の意味を御存知ですか?」  お父さんは意気を削《そ》がれたような表情のまま、少しのあいだ僕が発した問いについて考え、答えた。 「確か、日がのぼる場所、ってことだろ?」 「そういう説もあるみたいですけど、他にも色々な説があるそうですよ。『やまと』の枕詞《まくらことば》が『日の本』で、そこから転じて国名になったという説とか、その他にも色々と。学者たちはいまだに論争しているそうです。最近たまたま僕が読んだ本には、そういったことは歴史教育の現場では全然取り上げてなくて、自分の国の名前の正確な由来とか意味をほとんど知らないで育つ国民ていうのは、世界でもひどく珍しいって書いてありました」  お父さんが、だから? という感じの表情を浮かべながら、僕のことをジッと見ていた。僕はひどい徒労感に襲われた。僕はどうしてこんな場所にいるのだろう? そう思った時、理由が僕の視界に入ってきた。トイレから戻ってきた桜井は、ソファに座らず、お父さんに向かって言った。 「そろそろ解放してあげて」  居間から出てAVルームに向かっている時、桜井が低い声で訊いた。 「鬱陶《うつとう》しかった?」  僕は、ぜんぜん、と言って首を横に振った。僕は初めて桜井に嘘をついた。  AVルームは地下にあって、木目が鮮やかな総板張りの、十畳ほどの空間だった。ひどく高そうなステレオやスピーカー、畳ぐらいの大きさの大きな映写スクリーンとプロジェクターが置かれていた。壁の造り付けの棚には、それぞれ何百枚という枚数のCDやLPやDVDが収まっていた。そして、部屋のほぼ真ん中には、居間にあったものと同じソファが置いてあった。  桜井がモーツァルトの二十五番のシンフォニーをCDプレイヤーにセットしたあと、ソファに座った。桜井は、ずらっと並んだCDの背中に書いてあるタイトルを眺めている僕に向かって、「おいでよ」と言い、ソファをポンポンと叩いた。僕は桜井と少しだけ距離を空けて、ソファに腰掛けた。桜井がリモコンを使って、CDプレイヤーをONにした。ものすごい音量で、シンフォニーが始まった。  しばらくすると、桜井が僕の肩をトントンと叩いた。桜井の口が大きく動いていた。でも、声が聞こえなかった。初めは、音量のせいで聞こえないと思っていたのだけれど、すぐに桜井がわざと声を出していないことに気づいた。桜井は、同じ口の動きをずっと繰り返していた。唇がすぼみ、開く。僕には、その二文字の言葉が聞こえた。僕が手を伸ばして桜井のうなじに添えると、桜井の口の動きが止まった。うなじに添えた手に力を込め、思い切り僕のほうへ引き寄せた。第一楽章が終わるまでの十分ほどのあいだ、僕と桜井はほとんど唇を離すことなくキスをし続けた。  AVルームを出ると、夕御飯が待っていた。断る間もなくダイニングのテーブルに座らされた。テーブルには桜井のお姉さんも座っていた。桜井のお姉さんは遠慮という概念をまるっきり無視して、僕のことを興味深げに眺めていた。 「いただきます」  夕御飯が始まった。よく考えたら、僕は≪日本人≫の家族に囲まれて御飯を食べるのが初めてだった。そのことに気づいた僕は意味もなく緊張して、箸《はし》を持つ手が少し重くなってしまった。違う意味で僕が緊張していると思ったのか、桜井たちはできるだけ僕の緊張をほぐそうと、色々な明るい話題を持ち出して、食卓を笑いで満たし始めた。  桜井の両親とお姉さんは、とても気さくな人たちだった。僕は彼らの話によく笑ったし、時々話題にも加わった。いつの間にか、食も進んでいた。食事中、お父さんが何度かアイスティーのお替わりをしたので、僕は訊いた。 「お酒は飲まれないんですか?」  お父さんの代わりに桜井が答えた。 「うちは全員お酒の飲めない体質なの。おちょこぐらいの量でも即ノックダウン状態」 「杉原君は飲めるの?」とお姉さんが意味ありげに微笑みながら、訊いた。 「まだ未成年ですから」  僕が真面目な顔でそう答えると、短い笑いが起こった。僕は続けた。 「先天的にお酒を受けつけない人が存在するのは、黄色人種だけだそうですよ」  桜井家のみんなが、ふーん、という感じで頷いた。僕はなぜ黄色人種にだけ存在するのかを説明しようと思ったけれど、やめておいた。桜井が訊いた。 「お酒に強い人と弱い人の違いはどこにあるの?」 「お酒を飲むとね、『アセトアルデヒド』っていうある種の毒物が体の中に生まれて、それが人を酔わせるんだ。でも、お酒の強い人はそのアセトアルデヒドを分解する『ALDH2』ていう酵素がちゃんと働くから、お酒に酔わない。お酒に弱い人はその逆。ALDH2がほとんど働いてないんだ」  お父さんは満足そうに頷きながら僕の言葉を聞き終えたあと、言った。 「やっぱり杉原君は、優秀な高校に通ってるんだろうね」  桜井と、お姉さんが目立たないようにクスリと笑った。どうやらお姉さんは僕のことを桜井から聞いて色々と知っているらしい。  家を出る時、桜井のお父さんが玄関まで見送りに出てくれて、「また、遊びにいらっしゃい」と言った。最寄《もよ》り駅まで歩いているあいだ、桜井はとても嬉しそうだった。改札口で別れる時、桜井が言った。 「お父さんに、気に入られたみたいよ」  僕は曖昧に頷いた。桜井は少し俯《うつむ》き加減に顔を傾け、言った。 「うちのお父さん、あんまりセンス良くないかもしれないけど、でも、悪い人じゃないのよ。すごく優しいし、理解もあるし……」  僕は、そっと触れる感じで桜井の左の頬にパンチを当てた。桜井の顔が上がり、僕を見つめた。僕は言った。 「気に入られたなら、すごく嬉しいよ」 「ほんと?」  僕はしっかりと頷いた。桜井はホッとしたように息をつき、はにかんで笑った。僕は言った。 「それより、みんな、一度も桜井の名前を呼ばなかったね」  桜井は楽しそうに、言った。 「絶対言わないようにって、注意しといたから」 「いつか知りたいな」と僕は言った。 「なんかミステリアスでいいでしょ?」と桜井は相変わらず挑むように目を細めて、そう言った。「でも、近いうちに教えてあげるね」  初めて桜井の家に行って以来、僕と桜井のほとんどのデート場所は桜井の家になった。僕と桜井は多くの時間をAVルームで過ごした。  ある時は、一日をかけて『ゴッドファーザー』の三部作を観た。『ゴッドファーザー』シリーズは、僕にとって大切な作品だった。例えば、『ゴッドファーザーPART㈼』の冒頭で、アメリカに上陸したばかりの幼いビト・コルレオーネ≪のちのゴッドファーザー≫が、エリス島から自由の女神を眺めているシーンは、僕がこれまで観てきた映画の中で、一番美しいシーンだった。 『ゴッドファーザー』シリーズは、すべての移民(難民)とその末裔《まつえい》のための作品だった。この世界から移民(難民)がいなくならない限り、『ゴッドファーザー』シリーズは永遠の価値を保ち続ける、というようなことを桜井に力説すると、桜井は微笑みを浮かべながら、言った。 「あんまり難しいことはよく分かんないけど、杉原が『ゴッドファーザー』を大好きなことはよく分かったよ」  ある時は、一日をかけてマイルス・デイヴィスの多くの作品を聴いた。桜井は、マイルス・デイヴィスのジャズ史における重要性を僕に力説した。ビ・バップ、クール、ハード・バップ、モード、ファンク、という順で、マイルスの代表作を聴きながら、桜井から細かい説明を受けた。マイルスはジャズそのものなのよ、という言葉で桜井が説明を終えると、僕は桜井を引き寄せて、キスをした。  ある時は、一日をかけて愛撫《あいぶ》をし合った。僕たちはお気に入りの音楽をかけながら、お互いの体に優しく触ったり、キスをしたりした。でも、性器には触れなかった。僕たちには、初めてお互いを受け入れるのはこの場所ではない、という暗黙の了解事項みたいなものがあった。僕たちは、性器に触れてしまうことで衝動に拍車がかかり、了解事項を侵してしまうことを恐れたのだ。  僕はいつも桜井の首筋にキスをしながら、背中を優しく撫でた。桜井は胸にキスをされるより、首筋にキスをされるのを好んだ。曲線を描くように背中に指を這《は》わせると、桜井はいつも深くて濃い吐息を漏らした。そして、僕の耳に口を寄せ、何度も「好きよ」と言った。  桜井は僕の筋肉にキスをするのを好んだ。桜井のお気に入りは僕の上腕二頭筋と三角筋と腹筋だった。時々、桜井は僕の上腕二頭筋を思い切り噛《か》んだあと、「うぅぅぅぅ」という唸り声を上げた。桜井はいつも、僕の六つに割れた腹筋の四角のひとつひとつにキスをした。それが愛撫の終わりの合図だった。  初めて上半身を裸にして愛撫をし終えた時のことだった。服を身に着けているあいだ、お互いに照れ臭いものを感じていたせいか、僕たちは黙々と作業を続けた。音楽は、ブラームスのピアノ・コンチェルトがかかっていた。先に服を着終えた僕は、気詰まりな沈黙を消そうと、深い意味もなく言った。 「ブラームスって、何人《なにじん》なのかな?」  ブラジャーをつけ終えたばかりの桜井は、いったん手を止め、言った。 「知らない。でも、何人とかそういうのって関係ないと思うよ。だから、ブラームスって世界中の人に聴かれてるんじゃないかな。ブラームスの音楽って、綺麗だもんね」  僕は桜井に近づき、体重を預けるようにして、桜井をソファに横たえた。僕は右の耳を下にして、桜井の胸の真ん中に頭を載せた。すべての音楽は消え、桜井の鼓動だけが聴こえてきた。桜井の心臓のビートは一定不変でなく、常に変化をしながら鳴り続けていた。桜井は僕の頭を優しく撫で、頭のてっぺんにキスを三回してくれた。  それらの行為は、愛撫を終えたあとの儀式のようなものになった。僕は桜井の心臓のビートに耳を傾け、桜井は僕の頭のてっぺんにキスを三回する。そして、僕たちは名残《なご》りを惜しむようにして、AVルームを出る。  僕たちはお互いのすべてを欲していた。そのことに間違いはなかった。でも、初めてお互いを受け入れる場所は、特別な場所でなくてはならなかった。僕たちは、「綺麗な海のある場所へ行こう」という結論を出した。両親から貰《もら》ったお金で行くのは、「カッコ悪い」ことだった。自分たちで稼ぎ出したお金でそこへ行き、お互いを受け入れるのだ。そこがどこなのか、そこへ行くのにどれだけのお金がいるのか、そのどちらも僕たちには分かっていなかった。しかし、とりあえず僕たちは動き出すことにした。夏休みはもう目の前に来ていた。僕たちは会う時間を削り、アルバイトに精を出すことに決めた。  夏休みの大半を、ナオミさんのお店で皿洗いのバイトをして過ごした。正一も一緒だった。正一は、受験費用を稼ぐためにバイトをしていた。 「最近、どうなんだよ?」  ある日の休憩時間、正一は意味深な笑みを浮かべながら、そう訊いた。正一には桜井のことは話していなかった。でも、正一の誘いを何度か断るうちに、正一は感づいたのか、気を遣って誘いをかけてこなくなった。 「すげえ、いい子だ」と僕は言った。「近いうちに、絶対におまえに会わせるよ」  正一はそれ以上詳しいことは訊かず、ただ、楽しみにしてるよ、とだけ言った。  その日は珍しく、僕たちの話はくだらない話題で終始した。いつもは、『同じマイノリティである黒人はブルースやジャズやヒップホップやラップという文化を築けたのに、どうして≪在日≫は独自の文化を築けなかったのか』なんていう話をしているのに、その日は、『キム・ベイシンガーのためなら死ねるか』、とか、『ビートルズの中でリストラするならやっぱりリンゴ・スターか』、とか、『スーパーマンのピストン運動はやっぱりスーパーなのか』、なんてくだらない話題で盛り上がり、よく笑った。  休憩時間が終わる少し前、正一がふいに笑いを収めて、思い出したように言った。 「なあ、『肝試し』のこと覚えてるか?」 「なんだよ、急に」 「クルパーはやっぱりスゴイ奴だよ」と正一は目を細めて僕を見ながら、言った。 「でも、あん時、おまえはホームにいなかったよな?」と僕は言った。  正一は首を横に振った。「おまえたちのグループとは離れた場所に偶然いて、見てたんだよ」 『肝試し』とは、僕の中学に代々伝わる伝説的な度胸試しのことだった。僕は個人的には『スーパー・グレート・チキン・レース』と呼んでいた。  度胸を試す方法は至極簡単で、僕たちの学校の最寄り駅のホームの端に立ち、電車がホームの端から五十メートルの地点に入ったのと同時に線路に降り、ホームの端から端までを進行方向に向かって走り切る、というものだった。百メートルを十二秒で走れれば、電車に轢《ひ》かれずに走り切れる、という話だったけれど、僕の学校の誰かが計算したのだろうから、ほとんど十二秒という数字に信憑性《しんぴようせい》はなかった。とにかく、途中で転んだりしたら一巻の終わり。途中でビビって立ち止まっても一巻の終わり。足が遅くて電車に追いつかれても一巻の終わり。途中でホームの下に逃げ込んだり、反対の車線に逃げ込んだり、ホームに這い上がってきたりしたら、そいつは『オカマ』という称号を与えられ、みんなのパシリにならなくてはいけない掟《おきて》になっているから、どちらにせよ一巻の終わり。要するに、挑戦する奴は成功するしかないのだ。  過酷なルールなだけに、挑戦者はほとんど現われず、その結果、成功者は僕が挑戦するまでに二人しかいなかった。一人は僕の十二年ほど上の先輩で、のちにヤクザの鉄砲玉になって死んだ。そして、もう一人はタワケ先輩。  僕は朝鮮籍から韓国籍に変えた時に、記念に挑戦することにした。僕はその頃、百メートルを十一秒台で走れたから、成功する自信はあった。結果から言えば、僕は見事に成功したのだけれど、成功したせいで、まわりの連中から、「あいつは本当にクルパーだ」と言われるようになった。僕より前に成功した二人の先輩は、線路に降りる時、わざと一万円札を落とし、それを取りに行くというシチュエーションを度胸づけにして『肝試し』をスタートさせたらしい。僕は何も落とさず、淡々と線路に降りて、『肝試し』を成功させた。  僕は少し迷ったあと、その時の種明かしを正一にすることにした。実は、僕は好きな同級生の女の子をこっそりとホームに呼んでおいたのだ。当然、僕の勇姿を見た彼女は僕に惚《ほ》れた、ということになる計画だったのだけれど、計画は見事に破綻《はたん》した。彼女は、男心が分からない女だったのだ。彼女は言った。 「病院で、頭、診《み》てもらったら?」  正一は、ケラケラと本当に楽しそうな笑い声を上げた。しばらくすると真顔になり、俺が女なら絶対に惚れるけどなあ、と言った。僕は、だろ? と言って、首を傾げた。 「あの時のクルパーは本当にカッコ良かったよ」と正一は柔らかい笑みを僕に向け、言った。「最近、どういうわけか、あの時のクルパーの走ってる姿がよく思い浮かぶんだ。道を歩いてる時とか、風呂《ふろ》に入ってる時とか、ふとした時に。どうしてだろうな……」 「病院で、頭、診てもらったら?」と僕は言った。  僕と正一は顔を見合わせ、短く笑った。  休憩が終わって洗い場へ戻る途中、僕は言った。 「今日みたいにくだらない話、もっとしような」  正一はいつも通りの人懐っこい笑みを浮かべ、頷いた。  バイトの合間を縫って、桜井と会った。桜井はお父さんの会社のコネで、テレホン・オペレーターのバイトをやっていた。要するに電話受付で、楽な仕事の上に、時給も良いらしかった。桜井は子供の頃から貯めていた貯金もあったので、バイト料も合わせると、貯まったお金はかなりの額に達していた。一度金額をこっそり教えてくれたのだけれど、僕はびっくりしてしまった。桜井がバイトをする必要は、ほとんどなかった。  ある日のデート中、桜井が僕に言った。 「模試を一緒に受けようよ」  桜井は、カバンの中から有名な予備校の模試の申し込み用紙を取り出し、僕に手渡した。 「進学するつもりなんでしょ?」と桜井が訊いた。  僕は曖昧に頷いた。 「それじゃ、受けといたほうがいいよ、絶対」  桜井はそう言って、ジッと僕の顔を見つめた。断れるはずがなかった。僕は頷いた。桜井の顔に笑みが広がった。そんなわけで、八月の下旬のある日曜日、僕は桜井と一緒に、初めて模試を受けた。結果は、約ひと月後に出る予定だった。  夏休みが終わりに近づいたある日の夜、加藤から電話がかかってきた。 「いいバイトがあるぜ」  話を聞くと、加藤が主催するダンス・パーティーの用心棒のバイトだった。 「でも、おまえのダンパは大丈夫だろ?」  僕の高校ではダンパを主催するのが流行《はや》っていた。手軽に女が手に入るし、チケット売買から生じる利益もかなりのものになるからだ。でも、『素人《しろうと》』が手を出すと痛い目に遭う。甘い汁に群がる虫は一匹とは限らない。当然利益を巡って争いが起こる。それなりの力を持たない虫は、簡単にひねり潰《つぶ》されてしまう。要するに、ダンパのチケット売買や客の取り合いで、他校の連中としょっちゅう争いが起きるというわけだ。時には暴力|沙汰《ざた》が起き、警察のお世話になることもある。そうなると主催者の信用はがた落ちになって客足が落ちるから、主催者はできるだけ争いを避けるようにする。その時に必要なのが用心棒で、数が多ければ多いほど敵襲を受けにくくなるのだ。でも、加藤のダンパは一度も敵襲を受けたことがないはずだった。加藤の親父さんのバックを恐れずに敵襲をしてくる奴は、相当頭がイカレた奴に違いなかった。 「酔って暴れたりする奴がいるんだ」と加藤は言った。「そういう連中を叩き出す時の手伝いをしてくれよ」  加藤には「手下」が大勢いた。そんな役目のために、僕は必要がないはずだった。僕はバイト料を訊いた。僕がナオミさんの店でひと月働いて稼ぎ出した金額とほぼ同じだった。加藤は、僕が桜井のためにお金を稼いでいることを知っていた。 「いいのか?」と僕は訊いた。 「鬱陶しいこと訊くなよ」 「悪いな」 「ああ、それじゃ、次の土曜にな」  土曜の夜、僕は加藤の誕生パーティーが開かれた『Z』に向かった。店に入っていくと、前と同じように、電子音と煙草の煙とアルコールの匂いと人いきれと、チケット係の竹下が出迎えてくれた。竹下が、この前僕が座ったテーブルを指差した。すべて埋まっているテーブルの中で、そこだけがぽっかりと空いていた。僕は竹下の肩を叩いたあと、テーブルに向かった。  テーブルに座った。何もすることがなかったので、持ってきた文庫本を開き、テーブルに載ってるアルコール・ランプを読書灯にして、読み始めた。だいぶ前に正一から借りた『流亡記』だった。借りて以来、色々と忙しかったのでほとんど手がつけられずにいたのだ。  テーブルの上に、ウーロン茶の入ったふたつのグラスが置かれた。テーブルの脇に加藤が立っていた。本に集中していたので、近づいてきたのに気づかなかった。僕が本を閉じるのとほぼ同時に、加藤が僕の向かいの席に腰を下ろした。 「雪女じゃなくて悪いな」  僕と加藤は顔を見合わせて、笑った。 「うまく行ってるのか?」と加藤が訊いた。  僕は、ああ、と言って、頷いた。加藤は自分のグラスに口をつけたあと、訊いた。 「雪女は、おまえのこと知ってるのか?」 「どういうことだよ?」 「おまえの全部を知ってるのか、ってことだよ」 「……近いうちに話そうと思ってるけど」  加藤は頭をガリガリと掻《か》きながら、余計なお世話だったな、と言い、またグラスに口をつけ、ゴクゴクとウーロン茶を飲み干した。そして、言った。 「おまえ、高校を出たらどうするつもりだ?」 「まだ、はっきりとは決めてない」と僕は言った。 「それなら、俺と組んでガンガンのしてかねえか?」と加藤は僕の目を覗《のぞ》き込むようにして、言った。 「のすって、どんなことをするつもりなんだよ?」  加藤は心持ち身を乗り出した。「俺はクラブを経営するつもりなんだよ。すげえカッコいい店にするつもりだ。有名人がごそっと集まるような最先端のな。それを俺と一緒にやらねえか?」 「用心棒なら、俺より米軍基地の兵隊崩れのほうがぜんぜん役に立つぞ」  加藤は苛立たしそうに首を横に振った。「おまえに用心棒なんてさせねえよ。俺とおまえで共同経営者になるんだ」 「俺は、金なんて持ってねえぞ」 「金か」加藤は吐き捨てるように言った。「金なんていくらでも親父が出してくれるよ。俺はおまえにそばにいて欲しいんだよ」 「おまえ、もしかしてゲイか?」僕は加藤の勢いを消そうと、わざと冗談を口にした。「いや、ハード・ゲイか?」  加藤はクスリとも笑わなかった。加藤は真剣な眼差しを浮かべ、言った。 「俺とかおまえみたいな奴は、初めからハンデを背負って生きてるようなもんだ。俺たちは双子《ふたご》みたいにそっくりなんだ。俺たちみたいな連中がこの社会でのしてこうと思ったら、正攻法じゃダメなんだよ。分かるだろ? 社会の隅のほうでしのいでいって、でかくなって、そんで、しけたまとも面で俺たちのことを差別してきた奴らを見返してやろうぜ。俺とおまえならできるんだよ。俺とおまえは選ばれた人間なんだよ」  僕はしばらくのあいだ黙って、グラスについた汗を眺めていた。加藤の体が答えを促すように、小刻みに動いている。僕はグラスから目を上げ、言った。 「俺とおまえは似てないよ。俺とおまえは違うんだよ」  加藤の眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》が刻まれ、口から反論の言葉がいまにも飛び出そうになったその時、下のフロアから、女の、「いやっ!」という甲高《かんだか》い怒声が聞こえてきた。加藤は反論の言葉をいったん押し止《とど》め、席を立った。用心棒である僕も、席を立って、手摺《てすり》越しにフロアを見下ろした。  フロアのほぼ真ん中あたりで、男と女が揉《も》み合っていた。男のほうには見覚えがあった。僕と同じ高校、同じ学年の、確か小林という奴だったはずだ。いきがった奴で、裏では、僕のことをいつかぶちのめす、とほざいている、という噂だった。  小林は嫌がる女の肘《ひじ》のあたりを掴み、強引に自分のほうに引き寄せようとしていた。女が「やめてよっ!」と叫び、小林の頬を思い切り叩いた。パン、という音が合図になり、フロアで踊っていた連中のほとんどが動きを止め、揉み合っている二人のそばから離れ始めた。DJが音楽を止めた。  ギャラリーのすべての視線が自分の次の行動に注がれているのに気づいた小林は、短い時間でふたつの選択肢のうちのひとつを選ばなくてはならなかった。そして、当然のように小林は間違った選択をした。女の頬が叩かれる、パシン、という音がフロアにこだました。女が頬を押さえながら、小林に向かって「クズ!」と吐き捨てた。その言葉に反応して小林の手が動こうとした時、加藤が、「おい!」とフロアに向かって大声を降らせた。小林の動きが止まり、視線が僕と加藤に向けられた。小林は上げかけていた手を、ゆっくりと下ろした。でも、目は血走り、いまにも食ってかかってきそうな色を浮かべていた。加藤がなめたように、口元に笑みを点《とも》した。それがいけなかった。大勢のギャラリーの視線の中、あとに引けなくなった小林は、また最悪の選択をした。 「だせえチョン公をお供にしていきがってんじゃねえぞ!」  チョン公。懐かしい響きだ。物心ついた頃から、最低でも五十回以上は投げつけられてきた言葉だった。僕は最低でも五十発以上のパンチでそれに応えてきた。  加藤が僕の顔を見た。僕は肩をすくめた。加藤がフロアに向かって動こうとしたので、僕は肘を掴んで止めた。小林の声がまたフロアから飛んできた。 「下りてこいよ、チョン公。それとも尻尾巻いて国に帰るか、あ?」  加藤の目のあたりに、暗い陰が落ちた。僕は加藤の肘を離して、言った。 「分かったろ? 俺とおまえは違うんだよ」  僕は加藤をロフトに残し、階段を降りてダンスフロアに入った。クラブ全体に、ジリジリと肌を焦がすような緊張感が満ちていた。僕と小林の距離が一メートルほどになった。小林の顔は緊張で歪《ゆが》み、泣いているのか笑っているのか分からないような表情になっていた。僕はその曖昧な顔に向かって、言った。 「おまえ、『日本』ていう国号の意味を知ってるか?」  得体の知れない僕の質問に、小林の緊張が一瞬、ほどけた。僕は顔の真ん中に、素早くて、体重の乗った右ストレートを叩き込んだ。ガシン、という音が鳴ったのとほとんど同時に、小林は、ギャッ、と叫んで、鼻を手で覆い、フロアにうずくまった。僕はとどめを刺さずに、小林を見下ろしていた。  小林は顔から手を離して手のひらについた血を見つめたあと、右手をズボンのポケットに入れ、バタフライナイフを取り出した。シャンシャンという音を出しながら、シングルハンドの四つの動作で刃が開いた。ギャラリーが息を呑《の》む雰囲気が伝わってきた。小林はゆっくりと立ち上がった。  派手な見せ場を作ってギャラリーを楽しませるつもりはなかったので、僕は右の爪先蹴りを、防御がガラ空きの小林の股間《こかん》に叩き込んだ。ガツン、という音がし、小林は口の端からよだれを垂らしながら、再びフロアにうずくまった。僕は右足を元の位置に収め、小林の背後に回り込み、後頭部を足の裏で軽く蹴った。小林は前のめりにゆっくりと倒れていき、最終的にはピンで手足を打ちつけられ、あとは解剖を待つばかりのカエルのように大の字でうつ伏せになった。  小林は命綱のバタフライナイフを握り続けていた。僕はナイフを持っているほうの手首を、勢い良く踏みつけた。小林の手からナイフが離れた。僕はナイフを拾ったあと、小林の延髄《えんずい》の部分に片足を乗せ、体重をかけた。小林が無理に動くと、頸椎《けいつい》が折れてしまうはずだった。僕は言った。 「おまえ、喧嘩にナイフを使うってことは、自分もナイフでえぐられてもいいってことだぞ」 (僕は、いったい、何を言っているのだろう?)  小林の下半身がブルブルと震え始めた。 「それに、俺がおまえをえぐったところで、完全に正当防衛だ。ナイフを使おうとしたのはおまえなんだからな。目撃者も大勢いるぞ」  僕はまわりを見回した。誰一人として僕と目を合わせようとしなかった。 (僕は、こんなところで、いったい、何をしているのだろう?) 「本当なら腹をえぐってやるところだけど、今回は特別に勘弁してやる。その代わり、両耳をそぐか、両手の親指を切り落とすかのどっちかにしてやる。どっちか選べ。耳なら指を一本立てろ。指なら二本だ」 (僕は、本当は、こんなこと、ちっとも、言いたくないんだ)  小林は両手を握り締めることで、答えるのを拒否した。全身が小刻みに痙攣《けいれん》している。「両方だ」と言って僕が動こうとし、小林が、ヒャーッという女のような悲鳴を上げると、連鎖反応で女の子たちのあいだからも、キャッ、という短い悲鳴が上がった。 「勘弁してやってくれ」  背後から声が掛かった。振り向くと、加藤が立っていた。 「勘弁してやってくれ」と加藤が同じ言葉を繰り返した。  僕と加藤は黙って見つめ合った。僕はナイフの刃を収め、加藤に放ったあと、小林の延髄から足を上げた。加藤の脇を通り抜け、フロアからロフトに上がり、テーブルの上に置きっ放しだった『流亡記』を手にして、出口に向かった。すべての視線が僕に集まっていた。出口には、加藤と竹下が並んで立っていた。竹下は俯き、僕と目を合わせなかった。加藤がズボンのポケットから、札束を取り出した。  僕は札束から目をそらし、加藤の顔を見た。加藤は僕の目を見つめ、いまにも泣き出しそうな表情を浮かべた。 「……すまねえ」  僕は加藤の肩を優しく叩き、ドアを開け、外に出た。湿気の強い夏の夜の風が、顔に吹きつけた。月は分厚い雲に隠れていた。僕は少し迷った末に、東京タワーを目指して歩き始めた。  途中、何度か道に迷いながらも、あの日の小学校に辿り着いた。桜井が跨《また》がって得意気な顔をしていたレール式の鉄扉の前に立ち、ぼんやりしていると、雨が落ち始めた。しばらくのあいだ、鉄扉にもたれながら、雨に打たれた。ふと、オヤジとの最後のトレーニングのことを思い出した。 「天国って、ほんとにいい国なのかな……」  試しにあの時のオヤジのように飛んでみようかと思ったけれど、やめた。落ちてきている雨は、笑ってしまうぐらいしょぼかった。セミのションベン並みだ。もっと激しく降れ。そう願ったけれど、ダメだった。雨は止み始めていた。僕は思った。  なんであの時、飛んでおかなかったんだろう?  夏休みが終わり、二学期が始まった。  僕はちょうど沖縄に行けるぐらいのお金を貯めていた。そんなわけで、僕と桜井は沖縄行きを決めた。あとは、いつ行くか、ということだけだった。僕たちは慎重に計画を練ることにした。  加藤が僕の前に姿を現わさなくなった。そもそも、学校に来ていないようだった。また旅行にでも行っているのだろう、と思い、あまり気にしなかった。  模試の成績が戻ってきた。驚いたことに、僕の偏差値は卵の白身部分から卵豆腐ぐらいに格上げされていた。いつも小難しい本を読んでいたのが幸いしたのかもしれない。僕の成績を見た桜井は、浮かない顔で何度か、すごいじゃない、と言った。桜井は成績を見せてくれなかった。 「帰ろうか」と桜井は浮かない顔のまま、言った。  予備校近くのファストフードの店を出た。最寄り駅に向かうと思った桜井の足が、違うほうに向いた。 「ひと駅分だけ歩こうよ」  僕は頷いて、桜井の横に並んで歩いた。しばらくのあいだ、無言で歩いた。桜井は子供がするみたいに、道に落ちている小石を蹴ったり、電信柱のひとつひとつにタッチしたり、といったようなことをしていた。  十五分ぐらい歩いたあたりにバスの停留所があって、そこに待合いのベンチが置いてあった。 「座ろうか」と桜井は言った。  僕たちはベンチに腰を下ろした。僕は訊いた。 「どうした?」  桜井は、ふう、と息を吐いて、言った。 「なんか、わたし、バカみたい。すっごくカッコ悪い」  僕は黙って桜井の言葉の続きを待った。 「模試の成績、この前より下がっちゃった……。わたしね、こういうことでけっこう落ち込んじゃうタイプなの。ものすっごくくだらないことだって分かってるんだけど、どうしようもないのよね……」 「くだらないことだとは思わないけど」と僕は言った。 「そうかな?」と桜井は言った。「試験の成績のことで落ち込むなんて、やっぱカッコ悪いじゃない」 「真面目に試験を受けたんだろ?」 「うん」 「それなら落ち込んでもいいと思うよ。そのほうが自然じゃないかな」 「どうして?」 「真面目にやって、自分の目標にそぐわなかったのに、落ち込まないでヘラヘラしてる奴のほうがカッコ悪いよ。例えばそれが試験であっても、オリンピックの百メートル競技でも変わらないと思うけど」  桜井はジッと僕の顔を見つめ、言った。 「ほんとにそう思う?」 「百パーセント」  桜井の顔にホッとしたような笑みが浮かんだ。 「杉原も落ち込むこと、ある?」  僕は頷いた。 「そりゃ、あるよ」 「例えば、どんなことで?」 「……色々だね」  桜井は僕の目を覗き込むように見つめて、 「落ち込んだ時は絶対にわたしに相談してね」  僕は頷いた。  残りの道のりを歩くあいだの桜井はひどく上機嫌で、何度も僕に体当たりをしてきた。 「お姉ちゃんが言ってたよ」僕のふとももに回し蹴りを入れながら、桜井が言った。「杉原、すっごくカッコいいって。特に、目がキリッとしてて鋭くて、むかしの『日本男児』って感じだって」  薬局の前に置いてあるカエルのディスプレイを見つけた桜井は、わあ、と喜びの声を上げたあと、カエルに向かって小走りで駆け寄っていった。僕はその後ろ姿を見ながら、さっそく桜井に相談すべきなのかどうかを迷った。すべてを打ち明けるべきなのかどうかを迷った。でも、カエルの胴体に回し蹴りを入れている桜井を見た瞬間、どうでもよくなってしまった。僕は桜井のそばに駆け寄り、カエルの頭に回し蹴りを入れた。薬局の店主らしきおじさんが店から出てきて、なにやってるんだ! と怒鳴ったので、僕と桜井は慌ててその場から逃げた。途中で桜井が僕の手を握ってきた。僕は桜井の手を強く握り返した。僕たちは一生懸命に走った。  とりあえずは、すべてのことが順調に行っているように思えた。  十月に入ってすぐの、ある火曜日の夜、正一から電話がかかってきた。その夜は、とても静かな雨が降っていた。 「次の日曜、会おうぜ」と正一は興奮気味に言った。 「その日は大事な予定が入ってるんだ」  珍しく正一は引かなかった。「少しの時間でもいいからさ」 「電話で話せないのか?」 「会って、直接話したいんだよ」 「どんなことだよ?」 「すげえこと」 「だから、どんな風に?」 「いいから。とにかく、おまえには絶対に聞いて欲しいことなんだよ。おまえには分かってもらえると思うんだ」  僕は日曜の予定を思い浮かべ、言った。 「昼過ぎなら」 「何時?」 「一時から三時ぐらいまでだな」 「上等」 「それじゃ、いつもの通りでいいか?」 「一時に新宿の東口の改札ね」 「OK。なあ、ちょっとだけ教えろよ」 「しつこいよ」  電話が切れた。  僕が『すげえこと』を聞くことは、永遠になくなった。 [#改ページ]     5  都内の高校に通う、十七歳のある男の子がいた。 『彼』は通学途中にいつも駅のホームで会う、ある女の子に一目惚《ひとめぼ》れをした。彼女も都内の高校に通う学生で、とても美しかった。  彼女に会うたびに、『彼』の胸はひどく苦しくなった。思いをどう伝えれば良いか、分からなかったのだ。まず、彼女のような人間にどんな言葉で話し掛けたら良いか、それさえ『彼』には分からなかった。まわりの大人たちはそんなことを教えてはくれなかったし、それに、彼女みたいな人間がどういった人間かということさえ、満足に教わったことがなかった。彼女はチマ・チョゴリの制服を着ていた。 『彼』は迷った末に、まわりの友人たちに相談を持ちかけた。友人たちは当然のように囃《はや》し立て、俺たちがついてってやるから思い切って告白しろ、と煽《あお》った。『彼』は仲間たちの提案に抵抗できなかった。『彼』は内気で、ひ弱なタイプの男の子だったのだ。仲間の一人が、これを持ってると気合いが入るぞ、とバタフライナイフを『彼』に手渡した。  ある水曜の朝、『彼』と仲間たちは彼女が現われる駅のホームに集まった。『彼』が見かけるいつもとほとんど同じ時刻に、彼女が彼らの前に現われた。彼らの誰もが、彼女の美しさに息を呑《の》んだ。嫉妬《しつと》を感じて吐かれた仲間の言葉を、近くにいた乗客の一人が聞いていた。 「おまえ、あんなチョーセンにふられたら、パシリにしてやるからな」 『彼』は仲間たちに背中を押され、彼女に近づいていった。『彼』は彼女の斜め後ろに立った。 「あの……」  彼女は反射的に身を震わせた。北朝鮮のテロ行為、日本人|拉致《らち》疑惑、核開発疑惑、などのすべてはチマ・チョゴリを着ている彼女の細い肩に背負わされる。彼女は以前、五十がらみのサラリーマンに肩を殴られたことがあった。その駅のホームで。  恐る恐る振り向いた彼女の目に、神経質に目をしばたいている男の子の顔が飛び込んできた。『彼』には見覚えがあった。何度か電車の中で一緒になり、ひどく恐い目で自分を睨《にら》んでいたことがあった。  彼女は持っていたカバンを胸の前で抱え、無意識のうちに防御体勢を整えたあと、言った。 「……なんですか?」 『彼』はその時、どう思ったのだろう?  彼女の声の美しさに圧倒されて恐れを感じたのか、それとも、彼女が日本語を喋《しやべ》れることに驚きを感じたのか。とにかく、『彼』はただ黙って彼女の顔を凝視した。彼女はその視線にたじろぎ、脅威を感じ、心の中で助けを求め、まわりをキョロキョロと見回した。まわりにいた多くの乗客たちは、彼女の視線に射貫《いぬ》かれないよう、慌てて目をあちこちにそらした。  ホームに繋《つな》がる階段を、ある学生が上ってきて、ホームに姿を現わした。そいつはまるでそれが当たり前のように、すぐに彼女の視線を受け止め、音になっていない助けの声も聞き取った。彼女はそいつの後輩だった。そいつは、後輩をそんな目に遭わせる北朝鮮を憎んでいたし、筋違いの弱い者イジメをする日本人を憎んでいた。そいつは小走りで『彼』と彼女のそばに駆け寄り、まず『彼』の背中を強く押した。僕はそいつの勘違いを責めることはできない。その場にいたら、僕だって同じことをしただろう。僕とそいつは、そういった勘違いをするような状況の中で生きているのだ。いつだって。  前によろけた『彼』は、体勢を立て直したあと、後ろを振り返った。ブレザー姿の制服の男が立っていて、ひどく険悪な眼差《まなざ》しで自分のことを睨みつけていた。  ほんの短いあいだ、『彼』とそいつは無言で睨み合った。僕が新聞で読んだ話では、その時に『彼』は、「その男が彼女の彼氏で、自分に暴力を振るうと思った。恐かった。それに、みんなが見てたから、とてもみじめで恥ずかしかった」と警察に語ったということだった。そして、そこから先のことは、「よく覚えてない」。  電車の到着を知らせるアナウンスがホームに流れた。それが合図だったかのように、『彼』は制服の上着のポケットからバタフライナイフを取り出し、無器用な手つきで刃を開き、そいつの上半身に鋭い刃を向けた。そいつは生まれてから一度も殴り合いの喧嘩《けんか》をしたことがなかったし、当たり前だけれど、ナイフを向けられたこともなかった。喧嘩|馴《な》れをしている僕でも、初めてナイフを向けられた時は、一瞬にして体中の毛穴がすべて開いた感覚を味わい、ションベンをちびりそうになった。  そいつ、正一は、僕よりも勇敢だった。持っていたカバンでナイフを叩《たた》き落とそうと、ちっとも臆《おく》することなく『彼』に詰め寄った。僕は正一に教えておくべきだった。初めてナイフを向けられた時、僕はカール・ルイスより速く走って逃げた、と。それに、この世界で生き残る奴はみんな臆病者で、真に勇敢な者は早死にする運命にあるのだ、と。そして、おまえはこの世界に必要な人間だから、ナイフを向けられたら、弾丸よりも速く走って逃げなくてはダメなのだ、と。  正一は足を前に一歩踏み込んでカバンを振り上げ、素早い動作で思い切り振り下ろした。『彼』は咄嗟《とつさ》にナイフを持っていないほうの手を顔の前に上げ、カバンを受けた。二人の距離が縮まった。正一がもう一度カバンを振り上げた時、『彼』は恐怖のために反射的にナイフを下から上へと斜めに振り上げた。それは、正一が勢いをつけてカバンを振り下ろそうと、上半身を前にのめらせたのとほぼ同時だった。  ナイフが正一の首に走る左の頸《けい》動脈をえぐった。『彼』が腕に伝わってきた得体の知れないイヤな感触を振り払うように、本能的にナイフを持った手を引くと、正一のカバンが振り下ろされてきて、ナイフにぶつかった。カラン、という音を立てながら、ナイフがホームに転がった。電車がホームに入ってきた。正一は反射的にえぐられた箇所に手のひらをあて、押さえつけた。指の隙間から、シャワーのような勢いで血が噴き出し始めた。そばで一部始終を見ていた彼女は大きく目を見開き、小さく口を開け、声にならない叫びを上げた。あっという間に、本当にあっという間に、正一が着ていたブレザーの下の白いシャツがどす黒い赤に染まっていった。血を見た『彼』は、上半身を前に傾けたあと、胃の中のものすべてを吐き出し始めた。正一がホームにひざまずいた。彼女が近寄り、小さな手を頸動脈にあてられている正一の手のひらの上に重ねて載せた。彼女の手があっという間に血まみれになった。電車が停まり、ドアがいっせいに開いた。正一と彼女と『彼』がいる付近のドアからは、ホームにいる乗客は誰一人として乗車しなかった。「救急車を呼んでください!」。彼女が誰にともなく叫んだ。乗客たちはその言葉に真剣に耳を傾けることなく、整然と電車に乗り込んだ。彼女は閉まっていくいくつものドアに向かって、もう一度叫んだ。「救急車を呼んでください!」。何事もなかったかのように、本当に何事もなかったかのように、電車は発車し、次の駅へ向かって走り去っていった。『彼』を煽った仲間たちの姿は、ホームからなくなっていた。ようやく若い駅員が近づいてきた。「どうしたんですか?」。「救急車を呼んでください!」。若い駅員は彼女の叫び声の重さにきちんと反応し、瞬時に駅長室に向かって走って行った。彼女の体に、正一のぐったりとした体が寄りかかってきた。彼女はそれをしっかりと受け止めた。彼女はホームにべったりと腰を下ろし、後ろから抱きかかえるようにして、正一の体を自分の膝《ひざ》の上に横たえさせた。それ以上、正一に対して彼女ができることは何もなかった。救急車が到着し、担架が運ばれてくるまでのあいだ、彼女は目の前で吐き続けている『彼』と、遠くから物見高そうな視線を向けるだけの乗客たちを、時々、睨みつけた。そして、救急隊員の姿が視界に入ってきた時、彼女は大粒の涙をこぼし、声を上げて、泣いた。  正一は出血多量で死んだ。病院に到着した時にはすでに手遅れの状態だったようだ。『彼』は警察に逮捕された。『彼』の心神の耗弱《こうじやく》は激しく、取り調べは途中で打ち切られ、留置場に送られた。深夜、『彼』がひどい下痢の症状に襲われ、脱水症状に陥った。『彼』は留置場を出され、近くの大学病院に送られた。点滴治療の準備が進められていた病室は六階で、大きな窓が半開きになっていた。それは、本当にあっという間の出来事だったそうだ。それまで歩く気力もなく寝台に横たわっていた『彼』が急に窓に駆け寄って、窓を全開にし、窓枠に片足を掛けた。一瞬動きを止め、後ろを振り返った『彼』は、病室にいる人たちの誰にともなく、「ごめん」とつぶやいたあと、窓枠を越え、外の闇に向かって身を投げ出した。救急治療を受けたけれど、ダメだった。『彼』と正一は同じ日に死んだ。そして、その病院は、正一が運び込まれた病院でもあった。  悲劇だった。悲劇以外のなにものでもなかった。でも、どんな悲劇からだって、人はどうにか一片の「救い」を見出《みいだ》そうとする。僕だって同じだ。事件の二日後、僕は民族学校時代のある友人から、現場にいた彼女の話として、次のようなものを聞いた。  ——ぐったりしたまま彼女の膝の上に横たわっていた正一の頭がふと、動き始めた。彼女は正一の顔を覗《のぞ》き込んだ。正一の青白い顔には薄い笑みが浮かんでいた。そして、視線は線路のほうに向けられていて、まるでホームに入ってきた電車の姿を追うように、進行方向にゆっくりと動いていたそうだ。  正一は間違いなく線路を駆け抜ける僕の姿を見ていたのだ。きっとそうだ。そうであって欲しい。そうであってなにが悪いというのだ?  僕が正一の死の報を受けたのは、事件当日の夜のことで、電話は正一のお母さんからだった。前夜の正一の電話から、まだ二十四時間が経っていなかった。 「……正一が死にました」  僕が電話を受けてすぐに、お母さんはそう言った。お母さんの声はいつもより透き通っていて、僕にはとても綺麗《きれい》に聞こえた。  意味がうまく呑み込めなかった僕は、ただ、え? という声を発しただけだった。僕の声が合図だったかのように、お母さんが泣き始めた。低く、か細い嗚咽《おえつ》が僕の耳に次々と流れ込んできた。僕は詳しい説明を訊《き》きたいのを堪《こら》えて、ずっとお母さんの嗚咽を聞き続けた。途中、キャッチホンの合図の信号音が何度も鳴った。僕は、こんなものを発明したのはいったい誰だ? と思いながら、すべてを無視した。  お母さんは二十分近く泣いたあと、ごめんなさいね、と謝り、正一を死に至らしめた事件について話してくれた。 「正一は、本当にあなたのことが好きだったのよ。これまで正一につきあってくれて、本当に本当にありがとね」  電話を切る前、お母さんは僕にそう言った。僕はただ、はい、と応《こた》えただけだった。  電話を切ったあと、僕はベッドに仰向《あおむ》けに寝転がり、しばらくのあいだ天井を見続けた。一時間ぐらいは見続けたと思う。そのあいだ何を考えていたのかは、全然思い出せない。  ベッドから降り、居間へ向かった。オフクロはナオミさんとプーケットに行っていて、家にはいなかった。オヤジはゴルフのレッスンビデオを見ていた。 「正一が死んだよ」  オヤジはすぐにリモコンを使ってビデオを停め、テレビの画面を消した。僕は事情をオヤジに伝えた。オヤジは話を聞き終えると、そうか、と言って、深いため息をついた。そして、座っていたソファから立ち上がって僕に近づき、頭を荒っぽく撫《な》でてくれながら、言った。 「いまはあまり深く考えるなよ。バカみたいに泣いたり、食ったり、そういうふうにしたほうがいい」  僕は頷《うなず》き、ありがとう、と言って、居間を離れた。部屋に戻って数分後に、電話のベルが鳴った。子機のスイッチをONにすると、桜井の声が聞こえてきた。 「さっき、電話に出なかったね」と桜井は言った。  僕は正一のことを話そうかどうか迷ったけれど、結局、話さないことにした。色々なことをいっぺんに、うまく説明できる気力もなかったし、自信もなかった。 「ちょっといま色々と立て込んでるんだ」と僕は言った。「また明日でいいかな」  短い沈黙のあと、桜井が言った。 「どうかした?」 「近いうちに話すよ」 「……うん、分かった。明日、電話待ってる」  電話を切ろうとすると、桜井が思い出したように、慌てて言った。「日曜日のこと、覚えてるよね?」 「うん」 「ならいいの」  僕は電話を切った。  日曜日の朝、僕は家を出た。  僕と桜井は、つきあい始めてすぐに、「カッコいいもの探し」の一環として、いつかオペラを観に行こう、と約束した。僕たちはオペラを観たことがなかったのだ。  僕たちは多くの有名なオペラ作品をCDで聴き、その中から実際に観てみたいものをピックアップしていく作業をずっと続けていた。『フィガロの結婚』、『タンホイザー』、『蝶々《ちようちよう》夫人』、『ばらの騎士』、『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『椿姫』……。  僕は『カヴァレリア・ルスティカーナ』が観たいと言い、桜井はどうしても『椿姫』が観たいと言った。当然僕が折れ、『椿姫』を観に行こうということになったのだけれど、残念ながら、『椿姫』の上演予定は当分のあいだなかった。桜井は十一月からの数ヵ月を受験勉強にあてるつもりでいたので、オペラ鑑賞のリミットを十月までにしていた。そして、十月中の公演予定には『カヴァレリア・ルスティカーナ』があった。  僕たちは八月の頭には、驚くほど値段の高い公演チケットを買い、『カヴァレリア・ルスティカーナ』の予習を始めた。AVルームで何度となくCDを聴き、歌詞と内容を把握した。来たるべきオペラ初鑑賞に向けての準備は着々と進んだ。  準備は万端に整った。だから、公演の前日の土曜日の夜に、僕がキャンセルの電話をかけると、桜井はかなり不服そうな声で、「どうして?」と理由を訊いた。 「友達の告別式に行かなくちゃならないんだ」  僕がそう言うと、桜井は少しの沈黙のあと、訊いた。 「いつ死んだの?」 「水曜日」 「どうして今日まで言ってくれなかったの?」 「…………」 「そういうのおかしいよ、絶対」 「そうだね」  しばらくのあいだ、重い沈黙が流れた。 「その友達って、すごくむかしからの?」と桜井は訊いた。 「うん」 「ねえ、もしかしてわたしって頼りないのかな?」 「どうしてそう思う?」 「わたし、もしむかしからの友達が死んじゃったら、絶対に杉原に話して、慰めてもらおうとすると思う。それに、落ち込むことがあったら、わたしに話してって言ったでしょ?」 「……ごめん。でも、桜井が頼りないとかそういうことじゃないんだ、絶対に。事情は近いうちに話すよ」  桜井はそれ以上僕を責めるようなことはしなかった。僕が、チケットがもったいないから他の誰かと観に行ってくれ、と言うと、桜井は元気のない声で、そうするかも、と答えた。  電車の駅をふたつ乗り過ごし、バスの停留所をみっつ乗り過ごしたので、告別式の時間に一時間近く遅れてしまった。  正一の家からそう遠くない、とても大きな斎場に入っていくと、正一の告別式はすでにクライマックスを迎えていて、お母さん方の親戚《しんせき》の叔父《おじ》さんがスピーチをしていた。どうしてお母さんがスピーチしないのか僕にはよく分からなかったけれど、そんなことはどうでもいい気がしたので、僕は正一の遺影を胸の前で抱えて立っているお母さんの姿をぼんやり見ながら、叔父さんのスピーチを聞くともなく聞いていた。お母さんはひどくやつれていた。  僕が聞いていた十分ほどのスピーチのあいだ、叔父さんは三回も、「正一は生きて二十歳を迎えられなかった」と言った。僕はそれを聞くたびに目眩《めまい》を感じた。  告別式が終わった。係の人が、「会葬者の皆様には簡単なお昼ご飯が用意されておりますので、お二階の座敷のほうにお上がりください」と言った。階段のほうへと移動している会葬者の間を縫って、お母さんに近づいた。お通夜の時は黙礼を交わしただけだったので、きちんと挨拶《あいさつ》をしておきたかったのだ。  お母さんの前に立った。僕の姿を見たお母さんは、体中の空気が抜けてしぼんでしまうような深いため息をひとつついたあと、僕の胸に顔をつけて泣き始めた。正一の遺影が入った額縁の角が、何度か僕の顎《あご》に当たった。お母さんは時々、どうしてあの子が死ななくちゃいけなかったの、と言いながら、泣き続けた。僕は直立不動のまま、その言葉を聞いた。  親戚の叔父さんに引き離され、お母さんが僕の胸の中から出ていった。正一が焼かれる場所へ向かうお母さんの後ろ姿を見送っていると、後ろから肩を叩《たた》かれた。振り向くと、ブレザーの学生服姿の連中が大勢立っていた。僕は肩を叩いたと思われる奴の腹を、軽く殴った。元秀《ウオンス》はおどけたように両手で腹を押さえ、頑丈な四角い顎を従えた、いかつい顔に笑みを浮かべながら、言った。 「久し振りだな。どうしてずっと連絡くれなかったんだよ」 「そっちこそ」  僕と元秀はお互いになんとなく気まずい感じで、笑った。  僕と元秀は小学校以来の悪友だった。僕が悪さをする時、いつも隣には元秀がいた。ミニパトに絵の具入りの水風船を投げたのも元秀だし、一緒に名古屋に行ったのも元秀だった。ちなみに、中三の時、つきあいの悪くなった僕のあとを尾《つ》けて学習塾通いを目撃し、全校にすっぱ抜いたのも元秀だった。でも、僕が日本の高校に通い始めてからは、元秀とは一度も会わなくなってしまった。 「おまえ、ピヨってねえよな?」  元秀が顔を僕に近づけて、そう言った。ひどくヤニ臭い息がかかった。僕は、今度は思い切り元秀の腹を殴った。元秀が、ウッという呻《うめ》き声を上げた。 「殴っていい約束だったよな?」  僕と元秀は中二の夏休みに、二人で禁煙の誓いを立て合った。先に誓いを破ったほうは殴られても文句を言ってはいけない、という罰則つきで。  元秀は腹をさすりながら、満足げに微笑み、言った。 「明日、久し振りに一緒に暴れようぜ」 「なにして暴れるんだよ」 「狩りに行くんだ」 「誰を」 「正一を殺《や》った奴を煽った連中だよ」 「どいつか分かってんのか?」 「分かるもんか」と元秀は吐き捨てるように言った。「同じ学校の奴を誰か一人さらって小突いてやればすぐに吐くだろ」  僕は黙って、元秀の顔を見つめた。そして、背後にいるむかしの級友たちの顔を見回した。みんな生《い》け贄《にえ》を欲しがっていた。僕は言った。 「やめとけよ」 「あ?」  元秀の眉間《みけん》に深い縦皺《たてじわ》が刻まれた。僕は続けた。 「今回のことは新聞とかテレビにけっこう取り上げられたから、地元の警察は問題が起こらないようにって、当分のあいだ高校のまわりを張ってるぞ」 「警察《ポリ》がなんだって?」元秀の顔に凶暴な色が濃く浮かんだ。「警察が張ってるから、おまえはやめとけって言ったのか? あ?」 「連中を痛めつけてなんになるっていうんだよ。そんなことしたって——」  元秀が人差し指と中指の二本を立てて僕の学生服の胸のあたりを小突き、僕の言葉を遮った。元秀はすぐに指を引き戻し、突いた指先を不思議そうに眺めた。元秀が突いたのは、さっきまで正一のお母さんが顔をつけて泣いていた部分だった。元秀はかすかに濡《ぬ》れた指先をブレザーでこすったあと、言った。 「来るのか来ねえのか、どっちなんだよ?」  僕はきっぱりと言った。 「行かねえよ。正一もそれを望んじゃいねえはずだ」 「ほざいてんじゃねえよ」と元秀は抑えた声で言った。「確かに、正一は気の毒だった。でも、もう死んじまったんだよ。死んだらおしまいだ。だから、正一が残した問題は、生き残ってる俺たちが片付けなくちゃいけねえんだ。正一がそれを一番して欲しがってるのは、おまえのはずだぞ。そのおまえが、なにピヨったことほざいてんだよ」 「ほざいてんのは、てめえのほうだろ」と僕も抑えた声で言った。「おまえらに正一のなにが分かるってんだよ。おまえら、正一とまともに話したことがあんのか? おまえらはただ暴れたいだけだろ。そんなら族とでもイチャついてろよ」  ひどく凶暴な雰囲気が、僕たちのいる一帯に充満した。元秀と背後の連中の無数の視線が突き刺さり、痛い。僕は短くため息をついて、言った。 「正一を静かに行かせてやろうぜ」 「おまえ、どうしちまったんだよ」と元秀は困ったような表情で、言った。「日本学校に行って、日本人に魂を売っちまったのか」  魂という言葉を聞いて、ふと正一が『吾輩は猫である』の中に書かれている、大和魂に関する一節を暗誦《あんしよう》したのを思い出した。でも、詳しくは思い出せなかった。僕は少し迷ったあと、言った。 「魂のことなんて知ったこっちゃねえよ。でも、もし俺が朝鮮人の魂なんてものを持ってたとしたら、そんなもんいくらでも売ってやる。おまえら、買うか?」  元秀はひどく遠い眼差しを僕に向けた。  ——なあ、そんな目をするなよ。おまえは忘れたのか? 名古屋に着いた夜に宿に泊まる金がなくて、パチンコ屋の駐車場で野宿をした時、アスファルトの上に大の字に寝転がりながら夜空を見上げて、もっと遠くに行きてえなあ、って二人で言い合ったじゃねえか。俺たちは行けるんだぜ。いますぐにだって出発できるんだぜ……。  元秀はまた人差し指と中指で僕の胸を小突いた。 「おまえとは、これっきりだ。今度道で会っても、話し掛けるなよ。もしなれなれしく近寄ってきやがったら、速攻襲ってやるからな」  元秀はそう言って、後ろを振り返り、行こうぜ、とみんなに声を掛けた。元秀と他の連中が僕の横をぞろぞろと通り過ぎていく。その中の誰かが僕の耳に向かって、「こうもり野郎」と吐き捨てた。  みんなが僕の横を通り過ぎたあと、僕は一度だけ後ろを振り返った。元秀が立ち止まって、僕を見ていた。恐ろしいほどに無表情だった。僕は無理に笑みを作って、元秀に向けた。元秀は無視して、僕に背中を向けた。  斎場を出た。降りるべきバスの停留所を四つ乗り過ごし、反対方向のバスに乗ったものの、今度は五つも乗り過ごした。そんなことをしているうちに、斎場の最寄り駅に着いたのは夕方近くになっていた。  ホームに繋がる階段を下りていると、なぜかさっきの「こうもり野郎」という声が耳の奥で蘇《よみがえ》った。本当にこうもりだったらいいな、きっとどこにだって自由に飛んでいけるな、と思った時、ひどい目眩を感じて体のバランス感覚を失いそうになった。階段の途中で、お尻《しり》をべったりとつけて座り込んだ。目眩はすぐに止んだけれど、今度はどうしようもなく胸が苦しくなった。僕は、「うーうーうー」という低い唸《うな》り声を上げた——。  それは僕が中二の時のことだった。僕が所属していたバスケ部は、民族学校の全国大会の決勝まで進んだ。試合は、相手が大阪の連中だったせいか、『伝統の巨人対阪神戦』みたいな様相を呈して、異様に白熱した。激しいコンタクト・プレイで何人もの怪我人が出たし、観客のあいだでも喧嘩が起きて怪我人が出たほどだった。僕はポイント・ガードで試合に出ていたのだけれど、僕をマークしている選手から、巧妙なパンチを四回顔面に食らった。僕はそいつに膝|蹴《げ》りと肘《ひじ》打ちと頭突きと目潰《めつぶ》しの仕返しをした。その中の目潰しが審判にバレて、一度ファウルを宣告された。  試合は一点差で、僕たちが負けた。試合後、控え室に戻った僕たちは、黙って下を向き、悔しさを堪えていた。誰か一人が泣き出したら、それは瞬く間に伝染して、みんなも泣き出していたことだろう。コーチが僕たちの学校の校長を連れて、控え室に入ってきた。 「よくやった。わたしはおまえたちを誇りに思う」  コーチのその言葉で、一年坊主の一人が泣き始めた。僕たちの体の中の「泣きのスイッチ」がONになろうとしたその時、コーチが泣いている一年坊主に近寄っていき、オリンピックの円盤投げ選手並みの腕の振りで、一年坊主にビンタを見舞った。一年坊主は吹っ飛び、ドン! という大きな音を立てながら、ロッカーにぶつかった。僕たちはその音に身を震わせた。コーチはひどく冷静な口調で、僕たちの誰にともなく、言った。 「人前で泣く奴があるか。おまえたちはいつも敵に囲まれて生きてるんだぞ。敵に涙を見せるっていうのは、憐《あわ》れみを乞《こ》うことと一緒だ。敗北を認めることと一緒だ。おまえらが敗北を認めるということは、朝鮮人全体が敗北を認めるということになるんだ。だから、人前で泣くような習慣は絶対につけるな。泣きたかったら、部屋にこもって独りで泣け」  コーチが校長のほうを見た。校長は何事もなかったような顔で、軽く頷いた。コーチは言った。 「早く着替えろ。今日は校長先生がおまえたちの健闘を称《たた》えて、晩御飯をごちそうしてくれるそうだ」  コーチと校長が控え室を出ていった。控え室の中には、ひどく重苦しい雰囲気が充満していた。ある三年の先輩が、ビンタを食らった一年坊主に近寄り、頭を撫でてやった。それを見たキャプテンが突然、「うーうーうー」と低い唸り声を上げ始めた。キャプテンの目は真っ赤だった。唸り声はすぐに僕たちのあいだに伝染した。みんな目を真っ赤にしながら、「うーうーうー」と唸り声を上げた。みんな泣かないように必死で、「うーうーうー」と唸り続けた。それ以来、耐えられないほど辛《つら》かったり悲しいことがあったりした時に「うーうーうー」と唸り声を上げることは、コーチの知らないバスケ部の習慣になった。  そんなわけで、僕は駅の階段に座って、「うーうーうー」と唸り声を上げ続けた。夕刻のラッシュ時で駅はかなり混んでいたのだけれど、僕のまわりには見事なほどに誰も近寄らなかった。時々、不機嫌そうな顔をしたスーツ姿の若いサラリーマンたちが、僕に向かって舌打ちをした。おまえらが俺の敵なのか?  僕の心強い味方だった正一の顔が思い浮かんだ。僕は唸り声を止め、正一に話し掛けた。 「なあ、おまえが言ってた『すげえこと』っていったいなんだったんだよ。ミトコンドリアDNAよりすげえのか? それさえ知ってれば世界中から差別がなくなるとか、そういったもんだったのか? でも、本当にそんなもんがあったらすげえよな。おい、もしかして、女ができたとか、そんなことじゃなかったろうな。でも、俺としてはそっちのほうが良かったぜ。俺、おまえが女といるところ、一度も見たことなかったもんな。惜しかったな、おまえ、日本の大学行ってたら、絶対もててたぜ。おまえみたいな奴、どこにもいないもんな。なあ、なんで死んだんだよ? 俺、独りじゃちょっとキツイぜ。なあ、なんで死んだんだよ?」  僕は目を閉じて深呼吸をしたあと、階段から腰を上げた。階段を下り切ってホームに入り、公衆電話を探した。キオスクの脇にあるのを見つけて、そこに向かった。受話器を上げたものの、テレホンカードを家に忘れてきたことに気づき、ズボンのポケットに手を入れて十円玉を探した。十円玉がなかったので百円玉を入れ、ゆっくりと桜井の家の電話番号を押した。オペラに行っていたら、家にはいないはずだった。 「……この前テレビでやってたのを見たんだけど、現代人の祖先ていうのは、実は北京原人とかネアンデルタール人じゃなくて、二十万年前にアフリカ大陸で生まれた猿人らしいんだ。それはミトコンドリアDNAっていうDNAの配列の調査でネアンデルタール人のものと現代人のものを比べたことで分かったらしいんだけど、ミトコンドリアDNAのことは面倒臭くなるから、今度また説明するよ。アフリカ大陸で生まれた新しい猿人は、進化を重ねていって、ついには僕たちの直接の祖先である現代型の新人という存在になる。その新人の集団の中から、やがてアフリカ大陸を脱け出して世界各地に拡《ひろ》がっていくことを選んだグループがいくつか出てきたんだ。移動のきっかけは、勢力争いだったかもしれないし、環境の変化が原因かもしれない。地球は約十三万年前に氷期に入ったから、アフリカがものすごく寒くなって、暖かい場所を目指したのかもしれない。僕はそういうのとはぜんぜん違うきっかけだと思うんだけど、そのことはあとで言うね。アフリカを出た新人のいくつかのグループは、中近東のあたりでヨーロッパに向かう集団と、アジアに向かう集団に分かれた。そこで分かれたのが、のちのいわゆる『白色人種』と『モンゴロイド』、つまり僕たちのような『黄色人種』の始まりなんだ。『モンゴロイド』になることを選んだ集団は、アジアの土地目指して進んでいった。アジアの環境に応じた体と顔を徐々に作りながらね。彼らは途中では絶対に足を止めなかった。親が死んだら子供が意志を受け継いで、ただひたすら足を動かして移動し続けたんだ。そして、アフリカから十万年近い年月と一万数千キロの旅の果てに、日本に辿《たど》り着いたモンゴロイドたちがいた。そのモンゴロイドたちが、いわゆる縄文人と呼ばれる人たちで、大むかしの日本の住人だった。普通ならここで、めでたしめでたし、って感じで話は終わるんだけど、実はここからが面白いんだ。極東に辿り着いても、旅を止めないモンゴロイドたちがいたんだ。彼らはユーラシアをぐんぐん上がって行ってシベリアに辿り着き、その頃氷期で海水面がめちゃくちゃ下がって陸地になってたベーリング海峡を歩いて、アメリカ大陸の西の端のアラスカに渡った。でも、彼らはアメリカ大陸に渡っただけでも、満足しなかった。彼らはアメリカ大陸を一気に南下し始めた。途中で、マヤとかアステカ文明なんてものを築きながらね。そして、彼らはついに南アメリカの南の涯《はて》まで辿り着いた。何代もの代替わりの末に終着した旅だったけど、一番初めの一歩を踏み出した奴の勇気と名誉はきちんと子孫の体の中に残されてる。彼らが日本に留《とど》まったモンゴロイドと同じ集団に属していたことは、ちゃんと調査で判明してるんだ。縄文の血を受け継いでるアイヌの人と、アンデスのインディオの人のミトコンドリアDNAの配列を比べたら、ほとんど同じという結果が出たらしいんだ。すごいと思わないかい? アフリカ大陸からの距離を入れれば、二万五千キロもの旅だよ。それでね、彼らをそこまでの旅に駆り立てたのは、勢力争いが原因でも、環境の悪化が原因でもないと僕は勝手に思ってるんだ。彼らはただ、陸地の涯がどんな場所か見たかっただけなんだよ。きっとそうに違いないんだ。そのどうしようもなく単純な衝動を刻んだ遺伝子は、何代もの代替わりを経《へ》ても、決して消えなかった。そもそも僕たち人類はね、定着する性質を持たない種だったんだ。それが農耕というものが発明されて——」 「結局、何が言いたいの?」と桜井が柔らかい微笑みを口元に浮かべて、訊いた。 「僕が言いたいのは」僕は桜井の目を見つめながら、言った。「彼らがすごくカッコいいってことで、僕は彼らのようになりたいっていうことなんだ」 「要するに、わたしの気を惹《ひ》こうとしてるんでしょ?」と桜井は笑みを深めて、言った。  僕は素直に頷いた。桜井はクスクスといった感じで笑ったあと、僕の目をジッと覗き込んで、言った。 「この前テレビでやってたのを見たんだけど、北海道に盲導犬の老犬ホームっていうのがあってね、そこは、歳をとって盲導犬の役割をきちんと果たせなくなった犬が余生を過ごす場所なのね。わたし、そういったコンセプトの場所があるだけでも、すごく感動しちゃったから、もう食い入るようにテレビの画面を見続けたのね。そしたら、十年も一緒に暮らした人と犬のお別れの様子が映し出されたの。目が見えないおばさんと、オスのゴールデン・レトリーバーのカップルだったんだけど、おばさんと犬は一時間ぐらいずーっと抱き合ったまま動かなくて、ようやく係の人に引き離されてお別れを済ませたの。車に乗って老犬ホームを離れていくおばさんは、窓から身を乗り出して、手を振りながら、じゃあね、とか、バイバイ、とか、犬の名前を叫ぶんだけど、犬のほうはジッと座ったまま車のほうを見てるだけなのね。それは仕方ないことなの。盲導犬はそういう風に躾《しつけ》られてるから。絶対に心の動揺を態度に出しちゃダメだし、鳴き声を上げてもダメなのね。車が老犬ホームの敷地から消えても、犬はお別れを済ませた場所から一歩も動かないで、おばさんが消えていった方向をジッと見てた。何時間もよ。十年のあいだ片時も離れずにいた人がそばからいなくなったんだもの、ショックで動けなくなったんだと思うわ、きっと。おばさんと別れたのはお昼頃だったんだけど、夕方ぐらいに雨が降り出したの。ものすごく強い雨が。そしたら、ジッと前を見つめてた犬が顔を上げて、雨が落ちてくる空を見上げたと思ったら、いきなり、ワオーン、て鳴き始めたのね。ワオーンワオーン、て何度も何度も。でも、その様子はちっともみじめだったり、みっともなかったりしないの。犬の背筋はピーンと伸びてて、胸から顎のラインはまっすぐで、まるでよくできた彫刻みたいだった。わたしもう、ボロボロ泣いちゃった。犬に合わせて、ワオーンワオーンて感じで」 「結局、何が言いたいんだい?」と僕は訊いた。 「わたしが言いたいのは、その犬みたいに好きな人を愛したいってこと。その犬の鳴き声は、わたしがこれまで聴いてきたどんな音楽よりもきれいだった。わたし、好きな人をきちんと愛し続けて、もしその人を失ったとしても、あの犬みたいに泣けるような人間になりたいの。わたしが言いたいこと、分かる?」  僕はしっかりと頷いたあと、手を伸ばし、テーブルの上に載っていた桜井の手の甲の上に自分の手を重ねた。僕たちはしばらくのあいだ、言葉を交わすことなく、ただ見つめ合った。喫茶店のウェイターがやってきて、グラスに水を注ぎ足していった。桜井が言った。 「ずーっと泣きそうな顔してるね」 「そうかな」 「うん」  桜井は少しだけ俯《うつむ》いて、僕から目をそらし、ふうと息を吐いた。胸が小さく上下した。 「どうした?」  僕が訊くと、桜井は顔を上げ、僕の目を見つめた。 「今日、ずーっと一緒にいてあげようか?」 「え?」 「杉原が寝て起きるまで、ずーっと一緒にいてあげる」 「……いいの?」 「訊き返さないでよ、お願いだから」  桜井はそう言って、優しく微笑んだ。  銀座の四丁目近くにある喫茶店を出て、有楽町駅に向かった。桜井が構内にある公衆電話で家に電話をかけているあいだ、僕は駅の近くにあるコインロッカーに学生服の上着を預けに行った。コインロッカーの前に立ち、上着の内ポケットに入れておいた、ふたつの香典袋を取り出した。遅刻と元秀たちとのゴタゴタが重なって、渡すのを忘れてしまったのだ。まず、自分の香典袋から中身の三万円を取り出してズボンのポケットにしまった。次に、急な仕事で告別式に行けなかったオヤジから預かった香典袋を開けた。真新しい一万円札が十枚入っていた。それもズボンのポケットに入れた。きっと、正一もオヤジも許してくれるだろう。  駅の構内に戻ると、桜井はまだ電話をかけ終えていなかった。壁に設置されている時計を見た。午後十時十分前だった。  十時ちょうど、電話を終えた桜井が僕のところへ駆け寄ってきた。 「トラブル?」  僕がそう訊くと、桜井は慌てて、ううん、と首を横に振った。 「ぜんぜん大丈夫。お父さんには友達のところに泊まるって言っといた」  僕たちは帝国ホテルに向かった。別に悪いことをしているわけではなかったので、僕は自分の恰好《かつこう》も顧《かえり》みず、堂々とロビーに入っていった。桜井とはロビーに入ったところで別れ、ティールームの脇に設置されているソファで待っていてもらうことにした。  フロントに向かった。若いフロント係は僕を見てもなんの動揺も示さず、きちんとお辞儀をしながら、いらっしゃいませ、と言った。 「泊まりたいんですけど」と僕は言った。 「御予約はなさっておられるでしょうか?」 「いえ」  それからしばらくのあいだ、部屋の種類と料金に関する簡単な説明を受けた。料金は部屋の階数や向きによって違った。フロント係と色々と検討した結果、十二階にある日比谷公園向きのデラックスルーム、というやつにすることにした。とても眺めがいいのだそうだ。料金は香典で充分に足りた。 「お支払はカードでございましょうか、それとも、現金でございましょうか」とフロント係が訊いた。 「現金で」  前払いかと思ってズボンのポケットに手を入れると、タイミング良く、のちほどでけっこうでございます、という声が掛かった。宿泊者カードを渡されたので、記入した。面倒臭かったから、僕と桜井が夫婦ということにして、名前を『杉原』で統一した。問題だったのは桜井の下の名前で、わざわざ訊きに行くのも変だったから、僕が適当につけることにした。『恵子』ということにしておいた。キーを受け取り、フロントをあとにした。  桜井と合流したあと、エレベーターに乗り、十二階に上がった。フロア受付の前を通り過ぎ、長い廊下を歩いて、部屋のドアの前に立った。ドアを開け、中に入った。  背後でドアが閉まると、僕と桜井はほとんど同時に、ふう、とため息をついた。 「緊張したねえ」と桜井が微笑みながら、言った。  僕は素直に頷いた。  部屋は僕がこれまで泊まったことのあるホテルのどの部屋よりも広く、趣味が良かった。部屋の中にはどっしりとした感じの木のライティング・デスクや、どっしりとした感じのソファ・セットが置いてあり、壁にはどっしりした感じの額縁に入った絵が掛けられていた。浮ついていた僕と桜井はどっしりとした家具や調度品に見切りをつけ、ベッドに向かった。  僕たちはそれが当たり前のように、靴を脱いで広いダブルベッドの上に乗り、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。桜井は羽織っていた赤いカーディガンを飛び跳ねながら器用に脱ぎ、壁に向かって放り投げた。白いワンピースだけの恰好になった桜井は、ベッドに着地する時に裾《すそ》がめくれてパンティーが見えるのも気にせずに、飛び跳ね続けた。本当に楽しそうだった。  三十回ぐらい飛び跳ねて、お互いに息が切れ始めた時、桜井が僕に向かってダイブをしてきた。僕は空中で桜井の体を抱き締めて受け止めたあと、ベッドに着地した。僕たちは、はあはあ、と息をしながら、ベッドの上に立ったまま見つめ合った。桜井が急に唇を僕の唇に押しつけてきた。僕たちは舌を絡《から》ませながら、長いあいだ激しいキスをした。途中何度か唇を離して息継ぎをし、また唇をつけ合った。  僕が桜井の腰に両手をあてて親指を上下に動かすと、桜井は唇を離し、僕の胸に頭を載せながら、濃い吐息を口から漏らした。僕は手を徐々に下へ下ろしていき、ワンピースの裾を掴《つか》んで、ゆっくりと上にずり上げていった。桜井が両手を上げてバンザイの恰好をした。僕は一気にワンピースをずり上げ、脱がせたあと、ワンピースを壁のほうに放った。  下着姿の桜井が僕のワイシャツのボタンに手を掛けた。ひとつひとつ丁寧に外していく。桜井のリードに任せ、シャツとタンクトップを脱ぎ終えた。桜井はシャツとタンクトップをベッドの脇に落とし、僕のズボンのベルトに手を伸ばした。 「これは自分で脱ぐよ」  僕がそう言うと、桜井はクスッと笑い、ベッドから飛び降りた。そして、壁に向かい、照明のスイッチに手を伸ばし、部屋の明かりを消した。戻ってきた桜井は、ベッドの縁に腰を掛け、ブラジャーを外した。  僕はベッドから降り、暗闇の中でズボンと靴下を脱いだ。トランクスをどうしようか迷ったけれど、とりあえず脱がないままにした。ベッドのほうに目を戻すと、桜井が仰向けに横たわっているのが見えた。暗闇に目が馴れ始めていた。  僕は桜井の隣に身を横たえたあと、右手の親指で桜井の顔のパーツを優しくなぞっていった。おでこ、眉毛《まゆげ》、目、鼻、頬、唇。なぞり終えると、今度はそれらに軽いキスをした。桜井は規則的で、浅い息をしている。  僕は桜井の肩を掴んでゆっくりと裏返し、桜井の体をうつ伏せにした。まず首筋に舌を這《は》わせ、時々両方の耳たぶを軽く噛《か》んだ。桜井の呼吸が不規則に、荒くなり始めた。  僕は首筋から唇を離し、代わりに左手の親指をあて、優しく上下左右に動かした。そして、唇を背中の窪《くぼ》みにつけ、舌を出して嘗《な》めた。脂《あぶら》の味がした。植物性ではなく、動物性の脂だった。舌を窪みに沿って下げて行くと、桜井の体が時々、ビクンと震えた。荒い呼吸をするたびに腹部が上下し、僕の頭もそれに合わせて上下する。  バンザイをするように頭のほうに上げていた桜井の右手がベッドの上に這いながら、徐々に下りてきていた。下り切った手が、何かを探しているようにあちこちに動いた。僕が空いている右手を寄せると、桜井は驚くほど強い力で僕の手を握り、また頭のほうに上げていった。桜井は顔を横に向け、僕の手を思い切り噛んだ。僕は痛みに合わせるように、窪みにあてた舌を激しく動かした。右手の甲に激しい痛みと、荒い鼻息を感じた。  僕は背中の窪みから舌を外して体を少し起こしたあと、左手で桜井の肩を掴み、体を仰向けに戻した。桜井が噛んでいた僕の手を口から離して、言った。 「好きよ」  一瞬、桜井の目が赤く光ったように見えた。僕は目の前に横たわっている女を、発光体を、狂おしいほどに愛していた。だからこそ、お互いにすべてを受け入れ合う前に、言っておかなくてはならないことがあった。この女に隠し事をしておきたくはなかった。  僕は完全に上半身を起こし、ベッドの上に正座をした。 「どうしたの?」と桜井が訊いた。 「ごめん」  桜井が僕の右手を離した。僕は続けた。 「聞いて欲しいことがあるんだ」  桜井は両肘を立てながら、ゆっくりと上半身を起こした。 「なに?」  僕は桜井に気づかれないように深呼吸をして、言った。 「ずっと隠してたことがあるんだ」 「どうしたの、いきなり?」  桜井の声にはたっぷりの不安がこもっていた。 「僕自身はたいしたことじゃないと思ってるんだけど……」 「なんなの?」 「うん……」  僕が言いあぐねていると、桜井がおどけたように、言った。 「もしかして、前科があるとか」 「何度か補導はされたことあるけど、まだ前科はついてない」 「ふーん、そうなんだ」と桜井は言った。「家族のこと?」 「関係がないこともない」 「お父さんが前科者とか?」 「うちのオヤジは乱暴者だけど、真面目なんだ」 「お母さんが前科者?」 「ふざけてる?」 「あのね」と桜井は言ってため息をつき、続けた。「この状況で冗談でも言わなかったら、ものすごく気まずくなるでしょ?」 「そうかも」 「そろそろ話して。それで、さっきの続きをしましょうよ」  僕は一瞬、なんでもないんだ、さあ続きを始めよう、なんて言ってその場をうやむやにすることを考えた。でも、この機会を逃したら、二度と打ち明けることができないような気がしたので、やっぱり話すことにした。それに、僕が何を言おうと、桜井はきちんと受け入れてくれる気がしていた。そして、こう言ってくれるはずだった。それがなんだっていうのよ、いいから続きを始めましょうよ。  僕は桜井に気づかれるほどの深呼吸をして、言った。 「俺は——、僕は、日本人じゃないんだ」  それはきっと十秒とかそこらの沈黙だったはずだけれど、僕にはひどく長いものに思えた。 「……どういうこと?」と桜井は訊いた。 「言った通りだよ。僕の国籍は日本じゃない」 「……それじゃ、どこなの?」 「韓国」  桜井は僕のほうに投げ出していた両足を上半身に引き寄せたあと、折り畳み、膝の前で両手を組んで座った。桜井の体がひどく小さく見えた。僕は続けて、言った。 「でも、中二の時までは朝鮮だった。いまから三ヵ月後には日本になってるかもしれない。一年後にはアメリカになってるかもしれない。死ぬ時はノルウェイかも」 「なにを言ってるの?」と桜井は抑揚《よくよう》のない声で言った。  鼓動が速く打ち始めた。僕は続けた。 「国籍なんて意味がないってことだよ」  沈黙。沈黙。沈黙。沈黙。ようやく桜井の口が開いた。 「日本で生まれて、日本で育ったの?」  僕は頷いて、言った。 「君とだいたい同じ空気を吸って、だいたい同じ食べ物を食べて育った。でも、教育は違う。僕は中学まで朝鮮学校に通ってた。そこで、朝鮮語とかを習った」そこまで言って、あとはおどけた感じで続けた。「僕は実はバイリンガルなんだ。でも、日本では英語を喋れる人しかバイリンガルって呼ばれないみたいだけど。僕はね、オリンピックを見てる時、日本と韓国の選手の両方にエールを送れるんだ。すごいと思わないかい?」  桜井はクスリとも笑わなかった。無表情で僕を見ている。恐ろしいほどの沈黙。鼓動がさらに速くなった。むかし、初めてナイフを向けられた時よりも、速い。僕は何か話すべき事柄を必死に探した。見つからなかった。ひどい焦燥感がまず背筋を襲い、やがては全身に広がって、僕の体を重くした。僕はゆっくりと桜井のほうに手を伸ばした。桜井の体がビクッと震えた。僕の手が宙に浮いたまま、止まった。僕の脳は、動け、と命令しているのに。僕は手を下ろして、訊いた。 「どうして?」  桜井は何かを言いあぐねている感じで何度か口を小さく開けては、閉めた。それがどんな言葉であれ、とにかく桜井の声が聞きたかった。僕は、どうした? と優しく言って、桜井を促した。桜井は目を伏せて、言った。 「お父さんに……、子供の頃からずっとお父さんに、韓国とか中国の男とつきあっちゃダメだ、って言われてたの……」  僕はその言葉をどうにか体の中に取り込んだあと、訊いた。 「そのことに、なんか理由があるのかな?」  桜井が黙ってしまったので、僕は続けた。 「むかし、お父さんが韓国とか中国の人にひどい目に遭ったとか、そういうこと? でも、もしそうだとしても、ひどいことをしたのは、僕じゃないよ。ドイツ人のすべてがユダヤ人を殺したわけではなかったようにね」 「そういうことじゃないの」と桜井はか細い声で、言った。 「それじゃ?」 「……お父さんは、韓国とか中国の人は血が汚いんだ、って言ってた」  ショックはなかった。それはただ単に無知と無教養と偏見と差別によって吐かれた言葉だったからだ。そのでたらめな言葉を否定することはひどくたやすかった。僕は言った。 「君は——、桜井は、どういう風に、この人は日本人、この人は韓国人、この人は中国人、て区別するの?」 「どういう風にって……」 「国籍? さっきも言ったように、国籍なんてすぐに変えられるよ」 「生まれた場所とか、喋ってる言葉とか……」 「それじゃ、両親の仕事の関係で外国で生まれ育って、外国の国籍を持つ帰国子女は? 彼らは日本人じゃないの?」 「両親が日本人だったら、日本人だと思うけど」 「要するに、何人《なにじん》ていうのはルーツの問題なんだね。それじゃ訊くけど、ルーツはどこまで遡《さかのぼ》って考えるの? もしかして君のひいおじいちゃんに中国人の血が入っていたとしたら、君は日本人じゃなくなる?」 「…………」 「それでもやっぱり、日本人? 日本で生まれ育って、日本語を喋るから? それじゃ、僕も日本人ていうことになるね」 「……わたしのひいおじいちゃんに中国人の血が入ってるなんて、ありえないもの」と桜井は少し不服そうに言った。 「君は間違ってるよ」と僕は少し強い口調で言った。「君の『桜井』っていう苗字はね、元々は中国から日本に渡来した人につけられた名前なんだ。そのことは、平安時代に編まれた『新撰姓氏録』っていうのにちゃんと載ってるよ」 「……むかしの人には苗字なんてなくて、あとから適当につけたって話を聞いたことがあるけど。だから、わたしの先祖が中国の人だなんて分からないじゃない」 「その通り。君の先祖が桜井家に養子に入った可能性もあるしね。それじゃ、もっと遡ろう。君の家族はお酒が飲めなかったよね?」  桜井はかすかに頷いた。僕は続けた。 「いまの日本人の直接の先祖と思われてる縄文人にはね、お酒が飲めない人は一人もいなかったんだ。これはDNAの調査で明らかになってる。というか、むかしのモンゴロイドたちは全員お酒が飲めたんだ。ところが、約二万五千年前の中国の北部で突然変異の遺伝子を持った人間が生まれた。その人は生まれつきお酒が飲めない体質の持ち主だった。そして、いつ頃かは分からないけど、その人の子孫が弥生人として日本に渡来して、お酒が飲めない遺伝子を広めたんだ。君はその遺伝子を受け継いでる。その中国で生まれた遺伝子が交じってる君の血は汚いの?」  沈黙。  僕は身動きもせず、桜井の言葉を待った。桜井は長い長いため息をついて、言った。 「本当に色々なことを知ってるのね。でもね、そういうことじゃないの。杉原の言ってること、理屈では分かるんだけど、どうしてもダメなの。なんだか恐いのよ……。杉原がわたしの体の中に入ってくることを考えたら、なんだか恐いの……」  速かった鼓動が徐々に元のスピードに戻り始め、同時に、ついさっきまで僕の体を重くしていた焦燥感が消え始めた。僕は桜井よりも長い長いため息をついた。  桜井に背を向け、ベッドを下りた。暗闇の中で白く浮き上がっているタンクトップを拾い、身に着けた。桜井は言った。 「どうしてこれまで黙ってたの? たいしたことじゃないと思ってたら、話せたはずじゃない」  シャツを拾い、袖《そで》を通した。ボタンをはめる。桜井は続けた。 「ひどいよ、急にあんなこと言い出して、こんな風にしちゃうなんて……」  ズボンより先に靴下をはこうと思い、探したけれど見当たらなかった。しゃがんで床を手で探った。見つからなかった。困っているところに、桜井が言った。 「ズボンの裾の中に入ってるよ、たぶん」  僕はズボンを手に取り、裾の中に手を入れてみた。あった。桜井は言った。 「男の子はたいてい焦って、ズボンを脱ぐついでに靴下も一緒に脱ぐでしょ。だから、裾の中に入って見つからなくなっちゃうのよ」  僕は床に腰を下ろし、靴下をはいた。片足をはき終えた時、桜井が言った。 「さっきの長電話ね、お姉ちゃんだったの。お姉ちゃんに杉原と泊まること喋ったら、靴下のこと教えてくれた。もし杉原が靴下を見つけられなかったら、教えてあげろって。そしたら、杉原との関係でこれからずーっと主導権を握れるからって。初めてのセックスの時に余裕を見せないと、相手の男にナメられちゃうんだって」  もう片方の靴下もはき終えた。ズボンを手にして、立ち上がった。片足をズボンに入れた時、桜井が言った。 「わたし、初めてだったのよ……。そうでなくても、恐かったのよ」  ズボンをはき終えた。ズボンのポケットに入っていたキーを取り出し、ベッドの脇のサイド・テーブルの上に置いた。桜井は言った。 「ねえ、なんか喋ってよ……」  ドアに近づいて歩いて行く僕の背中に、桜井が言葉をぶつけてきた。 「わたしの下の名前はね、『椿』っていうの。『椿姫』の『椿』。桜と椿が一緒に入ってる名前なんて、めちゃくちゃ日本人みたいで教えるのがイヤだったの」  ドアノブに手を掛けた。少しだけ迷ったあと、振り返って、言った。 「僕の本当の名前は、『李』。李小龍《ブルース・リー》の『李』。めちゃくちゃ外国人みたいな名前で、こんな風に君を失うのが恐くて、教えられなかった」  ドアを開けて、廊下に出た。ドアを擦り抜ける時に、桜井の声を聞いたように思ったけれど、何を言ったのかは聞き取れなかった。  フロントに行くと、さっきの若いフロント係がまだいて、僕の出現に少しだけ不審そうな目を向けた。料金を払って、先に独りだけチェックアウトすることを告げた。不審の色が濃くなるかと思ったが、そうはならなかった。普段からきちんと訓練しているのだろう。 「眺めのほうはいかがでしたでしょうか?」  料金を払ったあとに、フロント係にそう訊かれた。そういえば、素晴らしい眺めを観るのを忘れていた。僕が、最高でしたよ、と嘘をつくと、フロント係は、ありがとうございます、と言い、折り目正しい笑みを作り、お辞儀をした。  電車はまだあったけれど、家まで歩くことにした。  JRの線路に沿って、東京方面に向かった。東京駅に着いた時に、学生服の上着を忘れたことに気づいた。十月の肌寒い夜だった。  東京駅を通り過ぎ、相変わらず線路沿いに神田《かんだ》に向かって歩いた。神田の駅前にあるコンビニエンス・ストアに入り、ショート・ホープと百円ライターを買った。若い店員が僕の恰好を見て一瞬何かを言おうと口を開いたけれど、睨みつけてやったら、まあいいや、という諦《あきら》め顔で、煙草を渡した。  まるまる四年ぶりの煙草だった。吸い始めはむせたけれど、すぐに往年の吸いっぷりを取り戻し、上野に着くまでには一箱吸い終わっていた。上野の一軒目のコンビニエンス・ストアでは販売拒否に遭い、二軒目では買えた。今度は念のために二箱買っておいた。  煙草を吸ったり、歌を口ずさんだり、ガードレールの上に乗って綱渡りのように歩いたりしながら、快調なペースで歩き続けた。西日暮里《にしにつぽり》駅に着いた頃には、午前三時を過ぎていた。家までもう少しだった。午前四時過ぎに、ようやく白山《はくさん》にある家の近くまで辿り着いた。まったく人気のない住宅街を我が家に向かって歩いていると、前方から自転車のライトが近づいてくるのが見えた。僕は深いため息をついた。自転車がこちらに近づいてくるスピード感だけで、乗っている奴がどんな種類の人間か分かった。「彼ら」とは本当に長いつきあいなのだ。そういえば、『長いお別れ』の中で、フィリップ・マーロウが言っていた。 『警官にさよならをいう方法はまだ発見されていない』  ズボンのポケットに入っている煙草とライターを、どうしようか迷った。中学一年の時に職務質問を受けた時、所持品を調べられた。煙草用に持っていたマッチのせいで、危うくその頃|頻発《ひんぱつ》していた放火の犯人にでっち上げられそうになったことがあったのだ。ちなみにその時、「このマッチはなんだ!」と警官に問い詰められたので、僕は一休さん並みのとんちを利かせ、「僕はストーブ当番なんです」と答えた。まあ、そのとんちが警官の機嫌を損ね、交番に連行されて放火魔にでっち上げられそうになったのだけれど。  歩道の脇に捨てようかと思ったが、こそこそ動くのが嫌だったので、そのままにしておいた。僕の姿を捕捉《ほそく》した自転車の乗り手が、少しだけスピードを速め、こちらに向かってきた。時々、自転車のライトが目に飛び込んできて、眩《まぶ》しい。 「ちょっと、君。こんな時間にどうしたの?」  若い警官は自転車から降りながら、そう訊いた。顔には濃い不審の色と、獲物を目の前にした捕食動物の残忍さが浮かび上がっていた。僕はのちのちのことを考え、自然な動きで立っている位置を修正し、若い警官が、駐《と》めた自転車のすぐ近くに立つように仕向けた。 「友達と遊んでいるうちに電車がなくなっちゃったんで、歩いて帰ってきたんです」と僕ははきはきと答えた。 「どこから歩いてきたの?」  僕が、有楽町です、と本当のことを答えると、若い警官は、そう、大変だったね、と言い、いかにも労をねぎらう様子で頷いた。普通ならここで、それじゃ気をつけて帰りなさい、という展開になるはずなのだけれど、相手もさすがにプロだ。僕の中学時代の残り香を嗅《か》ぎつけたらしく、お得意の質問に移った。 「うちはどこ?」と若い警官が厳しい顔をして、尋ねた。  さて、例えば、ここで僕が住所を言うとする。若い警官は無線で交番に連絡を取り、同僚の警官が住民台帳を見て僕が本当のことを言っているかどうかを調べる。その時、ついでに僕が≪在日韓国人≫なのも分かる。それを若い警官に伝える。若い警官は僕に尋ねる。「『外国人登録証明書』、持ってる?」。日本には外国人登録法という、『日本に在留する外国人』を管理するための法律がある。管理というと一応聞こえがいいのだが、要するに、「外国人は悪いことするから、首に首輪をつけとこう」という発想の法律だ。僕は日本で生まれて日本で育っているけれど、『日本に在留する外国人』だから、登録を義務づけられていて、当然ながらその証明書も持っている。その『外国人登録証明書』は常に持ち歩かなくてはならないことになっていて、それに違反すると、場合によっては、≪一年以下の懲役|若《も》しくは禁錮《きんこ》または二十万円以下の罰金≫を科せられる。要するに、首輪を外した奴には折檻《せつかん》が加えられる、というわけだ。僕は国家に囲われている家畜ではないから、首輪はつけてない。これからもつけるつもりはない。  とにかく、僕は重罪を犯して若い警官の前に立っていた。 「どうしたの? なんで答えないの?」と若い警官が嫌味な口調で答えを促した。  鬱陶《うつとう》しくて、腹立たしくて、面倒臭かった。フィリップ・マーロウなら、うまいへらず口を叩いてこういう状況をどうにか切り抜けるのだろうけれど、僕はフィリップ・マーロウというよりコンチネンタル・オプのほうなので、殴って逃げることにした。  素早く無駄のない動きで、右の手のひらを若い警官の喉仏《のどぼとけ》に押しつけるようにしてぶつけた。若い警官は、ゲホッ、という声を上げながら、後ろによろけた。若い警官のすぐ後ろには自転車が駐めてあったから、若い警官はそのせいでバックステップをして体勢を整えることができず、背中から自転車のサドルの部分にのしかかる感じで背後に倒れていった。若い警官の体重を支えきれない自転車は、若い警官の体を乗せたまま横倒しになった。  計算通りだった。僕は若い警官がよろけた時に、すでに走り始めていた。警官が体勢を立て直して追ってくる前に、どうにかして逃げ切るつもりだった。自信はあった。警官とのチェイスには馴れていた。  背後で自転車が横倒しになる、ガシャン、という音を聞いた。でも、続けて予想外の音が聞こえた。ガツン。走るスピードを落としながら後ろを振り向くと、若い警官が横倒しになった自転車の上に大の字になって乗っかったまま、ピクリとも動かないのが見えた。制帽が脱げ、頭部が剥《む》き出しになっていた。僕は足を止めた。どうやっても演技には見えなかった。僕は深呼吸の中にため息を混ぜながら、これからどうするかを考えた。とりあえず若い警官の様子を見に戻ることにした。  若い警官のそばにしゃがんで、右の手のひらは若い警官の鼻の上にかざし、左の手のひらは頸動脈にあてた。右は規則的な呼吸を、左は少し速めだけれど規則的な脈を、感じ取った。後頭部に手をあてた。出血はしていなかった。まわりを見回した。相変わらず人気はなかった。このまま逃げようかとも思ったけれど、若い警官の腰にぶら下がっている拳銃《けんじゆう》が目に入った。いまの僕の運気からすると、厄介な展開になる可能性が充分にあった。僕は長い長いため息をつき、近くに転がっていた若い警官の制帽を手にして、立ち上がった。  近くにあった月極《つきぎめ》駐車場の奥の空いているスペースに、若い警官を引き摺《ず》っていった。壁際に体を横たえさせた。自転車も駐車場に運び込んだ。あとは若い警官が意識を取り戻すのを待つだけだったので、そのあいだを利用して一服することにした。壁に背中をつけて地面に座り、煙草に火をつけた。煙を深く吸い込んで、深く吐いた。遠くから小鳥のさえずりが聞こえたような気がした。夜明けが近いのかもしれない。  煙草を一本吸い終わった時、若い警官が目を覚ました。少しのあいだ横たわったまま、目玉を激しく動かし、状況の把握に努めていた。何度か僕と目が合った。僕は笑みを向けた。  僕が二本目の煙草に火をつけると、若い警官は上半身を起こし、とりあえずという手つきで、体のあちこちを触り、なくなったものがないかどうか調べた。 「拳銃の弾を一発だけ抜いておきましたよ」  僕がそう言うと、若い警官は苦笑いを浮かべた。若い警官は体を動かして僕の横に移動し、壁に背中をつけて座った。 「一本くれよ」と若い警官は言った。  僕は箱ごと渡した。若い警官は煙草を抜き出し、口にくわえた。僕はライターを煙草に近づけ、火を点《とも》した。若い警官が頭を少しだけ動かし、煙草の先を火につけた。深く煙を吸い、吐き出したあと、若い警官が言った。 「俺、向いてねえんだよなあ、この職業」  僕は黙って若い警官の顔を見た。若い警官は続けた。 「俺、体育大を出てんだけどさ、警官になったのは就職先が見つからなかったからなんだよ。仕方なくって感じでなったからさ、いまいち仕事に身が入んないし、さっきのような時はいいようにやられちゃうし。俺、だいたいハンドボール一筋の球技系だから、格闘技系は苦手なんだよな……」 「さっきのはよけられないですよ」と僕は言った。「これまでよけた奴、誰もいませんでした。あれ、アメリカの軍隊で、接近戦用に教えてる技なんですよね」 「本当?」  僕は頷いて、言った。 「だから、気にすることないと思いますよ」  若い警官は、そうか、と言ってホッとしたような笑みを浮かべ、煙草をうまそうに吸った。  それからしばらくのあいだ、若い警官の愚痴《ぐち》を聞いた。先輩にイジメられてるとか、出世できそうにないとか、彼女ができないとか、そういうことを。そして、僕はいつの間にか、桜井とのホテルでの一部始終を若い警官に話し始めていた。若い警官は真剣な面持ちで、耳を傾けてくれた。僕が話し終えると、若い警官は、俺ならなんにも言わずにやっちゃうけどな、やったあとに考えるけどな、おまえ偉いな、よくこらえたな、という感想を述べた。そして、続けて、 「その女の子、芸能人でいえば誰に似てる?」  僕が少し考えて、思いつかないです、と答えると、若い警官は、そういうの困るんだよな、想像力に歯止めがかかるんだよな、とよく分からないことを言った。 「恐い、って言われちゃったんですよね」と僕は言った。「正直、すげえショックでした」 「分かるような気がする」若い警官は四本目の煙草に火をつけ、遠くを見つめながら、言った。「僕は気持悪いって言われたことがあるよ」 「それはキツイですね」と僕は言った。 「いまでもその時のことを思い出すと、泣きたくなる時があるよ……」 「早く忘れちゃったほうがいいですよ、そんなこと」と僕は言った。 「それじゃ、おまえは今夜のことすぐに忘れられそうか?」  僕は首を横に振った。だろ? と若い警官は言った。 「本当に好きだったんですよね」と僕は言った。 「俺もだよ」若い警官は煙を口と鼻から吐き出した。「まあ、俺の場合、つきあう前にふられたけどね」  僕は新しい煙草に火をつけ、深く吸って吐き出したあとに、言った。 「俺、これまで差別されてもぜんぜん平気だったんですよね。差別する奴なんてたいていなに言ったって分からない奴だから、ぶん殴っちゃえばよくて、喧嘩だったら負けない自信があったから、ぜんぜん平気だったんですよね。多分、これからも、そういった奴らに差別されるなら、ぜんぜん平気だと思うんですよ」  僕はまた煙草の煙を吸って、吐いた。 「でも、彼女に会ってからずっと差別が恐かったんです。そんなの初めてでした。俺、これまで本当に大切な日本人と出会ったことがなかったんですよね。それも、めちゃくちゃ好みの女の子となんて。だから、そもそもどんな風につきあったらいいかもよく分からなくて、それに、もし自分の素性を打ち明けて嫌われたら、なんて思っちゃったから、ずっと打ち明けられなかったんです。彼女は差別するような女じゃない、なんて思いながらも。でも、結局は彼女のこと信じてなかったんですよね……。俺、たまに、自分の肌が緑色かなんかだったらいいのに、って思うんです。そうしたら、寄ってくる奴は寄ってくるし、寄ってこない奴は寄ってこない、って絶対に分かりやすくなるじゃないですか……」  お互いに黙って、煙草を二本灰にした。新しい煙草を手にしながら、若い警官が言った。 「俺の大学の三年上の先輩にさ、金《きん》さんていう在日の人がいてよ、その人はみんなから『恐怖の金さん』て呼ばれてた。サッカー部にいたんだけど、部で一番足が速くて、腕っ節も強くてさ、一度差別した空手部の連中をこてんぱんにぶちのめして、それから『恐怖の金さん』て呼ばれるようになったんだ。俺、たまたまその喧嘩を見てたんだけど、あれはすごかったな。動きに少しの無駄もないんだ。芸術的ってああいうことを言うのかもしれないな。とにかくさ、こいつは人間じゃねえ、って思ったもの。アッパー食らった奴の体が、ちょっと宙に浮いたんだぜ。いまでも目に焼きついてるよ。それを見て以来、俺、金さんに憧《あこが》れちゃったもんな。うまく言えないけど、金さんが在日だとかそういうのは関係なくさ、ただ金さんに憧れちゃったんだよ」  若い警官は、うん、あれはほんとにすごかったな、と何度も頷きながら、煙草に火をつけた。僕は、『恐怖の金さん』のフルネームと思われる名前を若い警官に言った。若い警官は驚き、なんで知ってんの? と言った。僕は、『恐怖の金さん』が僕が中二の時に学校に新しく赴任してきた体育教師であることや、やっぱり生徒たちから『恐怖の金さん』として恐れられていたことを告げた。 「僕の友達で、すげえ数学が苦手な奴がいたんです。九九もやばい感じで、だから中学の数学の授業なんてぜんぜんついてこられなかったんですよ。そいつがある日、真冬の持久走の授業をさぼって、教室のストーブの前で居眠りをしてたんですけど、そこに『恐怖の金さん』が現われたんです」  若い警官は興味深げに、耳を傾けていた。 「『恐怖の金さん』はつかつかとそいつのところに歩いていって、まだ居眠りしてるそいつの胸倉《むなぐら》を掴んで引き摺り起こしたあと、首が引きちぎれるぐらいの、ものすごい往復ビンタを食らわしたんです。それ以来、そいつは数学が得意になりました」  若い警官は気が抜けたように口から煙を吐き出し、なにそれ、と言った。僕は続けた。 「往復ビンタを食らってから、ひどい頭痛がするっていうんで、そいつは病院に行ったんです。そうしたら、脳波が乱れてるのが分かったんです」  若い警官は、金さんのビンタならありえるな、としみじみつぶやいた。 「頭痛は一週間ぐらいで治まったんですけど、その代わりにそれまで解けなかった連立方程式とか図形の問題がスラスラ解けるようになったんです。四九は二十八とか言ってたレベルの奴がですよ」 「マジかよ」 「本当です」と僕はきっぱり言った。「それ以来、そいつは中学レベルの問題どころか高校レベルの問題までスラスラ解けるようになって、『開校以来の天才』って呼ばれるようになりました。いまは高校で『フェルマーの定理』に挑戦してるみたいです」 「『フェルマーの定理』って二次関数よりすごいのか?」と若い警官は訊いた。 「リトルリーグと大リーグの違いぐらいです」  若い警官は、ふーん、と感心したように頷いた。それじゃ、金さんはそいつの大恩人だな。  そうかな?  そろそろ帰らないとやべえな、と言って、若い警官が煙草を消し、制帽を手にして立ち上がった。僕も合わせて腰を上げた。若い警官は僕の肩を叩いたあと、少し照れ臭そうな笑みを浮かべ、言った。 「おまえ、『恐怖の金さん』みたいになれよ。そしたら、女なんていくらでも寄ってくるよ」  僕は小さく頭を下げ、さっきはすいませんでした、と謝った。若い警官は口を僕の耳に近づけ、あれは二人だけの秘密だからな、と言った。僕は笑いながら、頷いた。若い警官は、恥ずかしそうに微笑んだ。  家に戻ると、オヤジが寝ずに僕の帰りを待っていた。 「なにしてたんだ?」とオヤジは訊いた。  僕は桜井のことは省いて、警官を殴ってそれがきっかけで仲良くなった、と答えた。オヤジは深いため息をつき、まあいいや、とつぶやいた。そして、 「大丈夫か?」  僕は頷いた。  軽くシャワーを浴び、部屋に戻った。正一から借りっぱなしだった小説や詩集や画集や写真集やCDを机の上に積み上げた。本類は全部で三十四冊あり、CDは十六枚あった。正一が好きだったシューベルトの『冬の旅』を低い音でかけ、すべての本に簡単に目を通していった。  ラングストン・ヒューズの詩集に目を通している時、あるページに付箋《ふせん》が貼ってあることに初めて気づいた。そのページには『助言』という短い詩が載っていた。その詩を、ここには記さない。みんなが知らないうちは、その詩は僕だけのものだ。いや、みんなが知ったって、僕だけのものだ。  すべての本に目を通し終えた時には、夜は完全に明けていて、学校へ行く準備をしなくてはならない時間になっていた。僕は迷ったあと、学校をさぼることにした。そう決めてすぐに、僕は、泣いた。机の上に額を載せて、一時間近く泣き続けた。泣いたのは本当に久し振りだった。  ベッドに入って、眠りに落ちる前、僕は胸の中で正一に、おやすみ、と語り掛けた。  おやすみ——。 [#改ページ]     6  正一の告別式の夜以来、桜井からはなんの連絡もなかった。僕も連絡をしなかった。  正一の告別式の一週間後のある晩、加藤から電話があった。 「久し振りだな」加藤の声には張りがなかった。「元気か?」 「ああ。そんなことより、おまえどうして学校に来ないんだよ?」  加藤はひと月近く、登校していなかった。 「まだ噂は広まってねえのか」 「なんかあったのか?」と僕は訊《き》いた。 「警察にパクられたんだよ」 「なにやって?」 「Lの売買」 「アホ」 「その通り」 「それで?」 「家裁に送られたけど、なんとか保護観察で済んだ。最近の週末のデート相手は保護司のおっさんだよ。またこのおっさんがキュートでよ。婚約も間近だな」 「アホ」 「その通り」 「これからどうすんだよ?」 「学校のほうはクビになったし、親父もカンカンでさ。俺のこといい子だと思ってたらしいんだよな。そんなわけで、しばらくは禅寺の坊主みたいに暮らして、あちこちの機嫌を伺《うかが》う生活だ」 「そうか。しっかり修業しろよ」 「そういや、雪女のほうはどうなってる?」 「溶けていなくなっちまったよ」 「ダメになったのか?」 「だからそう言ってるだろ」 「……そうか。おまえ、これからのこと、決めたか?」 「大学を受けるよ」 「どうしたんだ、急に」 「友達の遺言《ゆいごん》なんだ」 「なんだそれ?」 「いつか話すよ。まあ、いまは受験勉強とやらを必死にやってるよ」 「おまえなら受かるよ」 「そうかな」 「ああ、絶対だ。でも、どうせ受けるなら、すげえ大学を受けろよ。俺の代わりに高いところの空気を吸ってきてくれ」 「どうせ薄くて、汚ねえに決まってる」 「ばっちりじゃねえか。おまえ、馴《な》れてるだろ」  僕たちは同時に短い笑い声を上げた。 「近いうちにそっちに顔出すよ」と僕は言った。 「いや、やめてくれ」と加藤はきっぱり言った。 「どうしたんだよ?」  少しの沈黙のあと、加藤は言った。 「俺、当分のあいだおまえに会わねえつもりだよ。この前のクラブでの一件のあと、俺は俺なりに無い頭で色々考えて、そうすることに決めたんだ。俺、これまで色々なものに甘えてて、中途半端で、すげえカッコ悪い男だったと思うんだよな。おまえが小林をぶちのめしにフロアに降りてく後ろ姿を見た時、そのことに気づいたんだ。ああ、このままじゃ一生こいつにかなわねえ、って思った。俺、おまえみたいにてめえの足でしっかり立てるようになって、おまえとタメ張れるようになるまで、おまえと会わないことに決めたんだ」 「……俺はそんなにいいもんじゃねえよ」 「おまえにとっては、それが普通なのかもしれねえよ。でも、俺にとっては違うんだ。ヤクザの息子ってだけじゃダメなんだよな、もう。それだけじゃ足りねえんだ。それだけじゃおまえに届かねえ。何かを見つけねえとな、必死によ。これでけっこう大変なんだぜ、日本人でいることも」  加藤はそう言って、へへへ、と笑った。僕は言った。 「すげえ大学に受かったら、連絡するよ。何年かかるか分からねえけど」 「ああ、そん時はすげえパーティーを開いてやるよ」 「親父さんによろしくな」 「伝えとく」  僕が、じゃあな、と言い、加藤は、またな、と言って、電話を切った。  十一月に入ってすぐ、新たな挑戦者が僕の前に現われた。加藤という後ろ楯《だて》を失くして僕が意気消沈していると勘違いした二年坊で、一分で片付けた。最短記録だった。こうして僕は『二十五戦無敗の男』となった。それにしても、僕はいつまでこうして戦い続けなくてはならないのだろう?  加藤がいなくなり、話し相手さえいなくなった僕は、受験勉強に集中した。休み時間や昼休みも受験勉強にあてた。学校が終わるとまっすぐ家に帰り、いつものようにトレーニングとギターの練習をやり、明け方まで受験勉強をやった。そうそう、受験勉強の息抜きに、スペイン語の勉強も始めた。ウノ、ドス、トレス、クワトロ、ブエノス・ディアス、ムチャス・グラシアス、アディオス、アスタ・ラ・ビスタ……。  オヤジとオフクロが喧嘩《けんか》をし、オフクロがまた家出をした。今回の原因は、オフクロが車の免許を取りたい、と言い出したからだった。もう勝手にしてくれ。  雨の多い毎日が続いた。時に憂鬱《ゆううつ》に響く雨音を聞きながら、受験勉強に集中した。  十一月の下旬のある雨の日の昼休み、見覚えのない奴が僕の机の前に近づいてきた。ギャラリーたちの話し声が止み、僕の机のそばにいた連中は、みんな教室の隅のほうへと離れていった。僕は読んでいた古典の参考書を閉じ、一応戦闘体勢を整えた。そいつは敵意がないことを示すように、かすかな笑みを口元に浮かべていた。 「ちょっと、いいかな?」  柔らかい声だった。銀縁の眼鏡を掛けていた。眼鏡を掛けたまま喧嘩を仕掛けてくる奴は、よほどの達人だ。そいつはどうやっても達人には見えなかった。  僕が頷《うなず》くと、そいつは空いている僕の前の席の椅子を僕の机に向き直し、腰を下ろした。ギャラリーたちの話し声が戻った。 「僕は宮本っていうんだけど、知らないよね?」と宮本は言った。  僕は正直に頷いた。宮本は、やっぱりね、と言って、爽《さわ》やかに笑い、続けた。 「一応、杉原君と三年間同じ学年だったんだけどな」 「なんの用だよ?」と僕は訊いた。  宮本の顔から笑みが消えた。宮本はさりげなく目を動かしてまわりを見たあと、抑揚のない声で言った。 「実は、僕も君と同じ≪在日≫なんだよね」  宮本は僕のなんらかの反応を待っていた。多分、好意的なものを。僕はなんの反応も示さなかった。宮本はかすかに落胆の色を浮かべた。 「僕は君と違って、ずっと日本の義務教育を受けて育ってきたから、韓国語も知らないし、韓国の歴史や文化についても知らない。でも、僕は≪韓国人≫なんだ。不思議だよね。そう思わないかい?」  僕は黙って宮本の顔を見ていた。宮本はかまわず続けた。 「もし僕がアメリカに生まれてたら、僕は≪韓国系アメリカ人≫ていう地位を与えられて、それと同時にアメリカ国民としてのすべての権利を与えられたはずなんだ。きちんと人間として扱ってもらえたはずなんだ。でも、この国は違うよね。僕がどんな日本人よりも模範的な人間になったところで、国籍が韓国のままだったら、絶対にちゃんとした人間として扱ってくれないんだ。外国籍のままじゃ、相撲の親方になれないようにね。同化か、排除か。この国はふたつの選択肢しか持ってないんだ」 「それじゃ、国籍を日本に変えればいいじゃねえか」と僕は言った。  宮本はあからさまな落胆の色を顔に浮かべた。 「この国に敗北を認めろって言うのか?」 「敗北ってなんだよ? おまえは具体的に何と闘ってるんだ? それに、おまえの民族心とやらは、国籍を変えることでなくなっちまうのかよ」  宮本はため息をついて、言った。 「時間がないから、今日来た用件を言っておくよ。僕はいま、≪在日≫の若い連中を集めて、あるグループを作ろうとしてるんだ。そのグループには北朝鮮とか韓国とか総連とか民団とか、そういう区別は一切ない。≪在日≫の権利のために勉強したり活動したりしていこう、っていうグループなんだ。もうすでに百人近くは集まってるし、これからも増えていくはずだ。君もそのグループに参加しないか? 君みたいな人間が参加してくれたら、ものすごく頼もしいんだけどな」  宮本は答えを促すように、僕の目をジッと覗《のぞ》き込んだ。僕が黙っていると、宮本は、ひとつだけ訊いていいかな、と言った。僕は頷いた。 「杉原君は韓国籍だよね?」  頷いた。宮本は続けた。 「君が国籍を変えることに抵抗がないなら、どうして韓国籍のままなんだい?」  僕は答えなかった。宮本は薄い笑みを唇の端のあたりに見せながら、言った。 「生きていくのに別に支障がないからだ、なんて言わないでくれよ。例えば、何年かに一回でも、外国人登録の切替なんて称して、お役所に『出頭』させられるのはどうなんだい? 例えば、海外旅行に行くために、『再入国許可』の手続きを取らされるのはどうなんだい? 僕たちはこの国で生まれて育ってるのに、『この国に戻ってきてもよろしいでしょうか?』なんて伺いを立てなくちゃいけないんだ。そういった一切合財が、君みたいな人間にとって、生きていく上での大きな支障なんじゃないのかい?」  少しの沈黙のあと、僕は口を開いた。 「知ったふうな口をきくなよ。おまえに俺のなにが分かる」  昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。宮本は軽く舌打ちをして、腰を上げた。 「いいところだったのにね。近いうちにまた来るよ。その時に答えを聞かせて欲しい」  宮本に言われたことを色々と考えながら、家に帰った。  家の中には人の気配がなかった。オフクロの家出は三週間目に突入していた。居間を覗くと、パターが床の上に寝転がっていて、ゴルフボールもあちこちに散らばったままになっていた。僕はパターを拾って、ソファに立て掛けた。  夜になっても、オヤジは帰って来なかった。夕飯の出前をどうしようか迷っているところへ、オヤジから電話が入った。オヤジはひどく酔っていた。 「おう、ちゃんとお勉強してるか?」 「酒、飲んでんの?」 「おうよ」 「珍しいじゃない」 「おまえが生まれた日にやめたからな、十八年ぶりだよ」 「どうしたの? なにかいいことがあったの?」 「その逆だ」 「なにがあったの?」 「詳しいことはあとで話すよ。とりあえず、金持ってきてくれねえか」 「は?」 「金、なくなっちゃって、酒代が払えないんだよ」 「しょうがねえなあ」 「悪いな」  オヤジの居場所を訊いて、電話を切った。着替えを済ませ、机の引き出しの中から香典の残りを取り出し、ジーンズのポケットに入れた。戸締まりをチェックし、家を出た。朝から降り続いていた雨が上がっていた。  オヤジは上野駅の広小路口の改札の脇の壁に、ぐったりともたれて立っていた。壁をずるずると伝って、いまにも崩れ落ちそうだった。隣には、不機嫌な顔をした若い男が立っていた。  僕は改札口を抜けて、オヤジのそばに立ち、肩を叩《たた》いた。オヤジがビクッと身を震わせながら、目を開けた。 「おお、孝行息子よ」  オヤジは満面の笑みを広げて、そう言った。ものすごく酒臭い息が、僕の顔にかかった。 「この人に、お金払ってやってちょーだいな」  オヤジが若い男を指差した。僕は男から料金を聞き、その通りに支払った。 「お父さんにクレジット・カードを持つように言っておいてね」と若い男が嫌味っぽく言った。  かなり前の話になるけれど、オヤジはクレジット・カードに入会しようとして、事前の審査で落とされたことがあった。当時、オヤジは腐るほどの金を持っていた。落とされた理由は言うまでもない。オヤジはそれ以来、クレジット・カードを目の敵《かたき》にしていた。  腹が立ったので、若い男を小突いてやろうと思ったが、僕の気持を感じ取ったのか、オヤジが若い男を追い払うように、それじゃどーも、と言って若い男の背中を押した。若い男は軽く舌打ちをして、僕たちのそばから離れていった。 「歩けるの?」と僕は訊いた。  オヤジは、大丈夫だよ〜ん、と言って切符売り場に向かって歩き出した。酔っ払いコントで芸人が演じる足取りだった。よく見ると、ズボンの腰のあたりが泥で汚れていた。僕はオヤジの横に並び、腰に手をあてた。 「タクシーで帰ろうよ」と僕は言った。  オヤジは僕の肩に手をまわしたあと、金足りそうか、と訊いた。僕は頷いた。タクシー乗り場に向かって、オヤジを支えながらのろのろと歩いている時、オヤジがポツリと言った。 「今日、立て続けに二本の電話があってな……。一本は、また交換所がなくなる話だった。もう一本は、北朝鮮からの国際電話でな、東吉《トンギル》が死んだ、って話だった……」  僕は足を止めた。東吉とは、北朝鮮に行った僕の叔父《おじ》さんのことだ。 「なんで死んだの?」と僕は訊いた。 「病気らしい。電話は東吉の奥さんからだったんだけどな、高血圧がどうのこうのとか、栄養失調がどうのこうのとか、あんまり要領を得ない話で、結局何が直接の原因かはよく分かんなかったよ……。それでな、三十分ぐらい話したけど、二十五分ぐらいはずっと奥さんに責められてた。自分だけいい暮らしをして、弟にはなんにも送らなかったって……」 「送ってたじゃねえか」と僕は強い口調で言った。 「足りなかったんだろ」  オヤジはそう言って、行こう、と僕を促した。僕は歩を再開した。  タクシーに乗り込んで、年配の運転手に行き先を告げた。月末で、さらには週末の夜だったせいか、タクシーはラッシュに捉《つか》まり、のろのろと進んでいた。僕とオヤジはしばらくのあいだ、黙ってシートに腰を埋《うず》めていた。オヤジはぼんやりとした視線をフロントグラスに向けていた。僕は一度も会うことなく死んでしまった叔父のことを考えていた。日本から北朝鮮まで、飛行機ならどれぐらいで行けるのだろう? 二時間? 三時間? 僕は同じぐらいの時間を使って、韓国には行ける。でも、北朝鮮には行けない。何がそうさせるのだ? もとを糺《ただ》せば、韓国だって北朝鮮だって、ただの陸地じゃないか。何が行けなくしてるのだ? 深い海か? 高い山か? 広い空か? 人間だ。クソみたいな連中が大地の上に居座り、縄張りを主張して僕を弾《はじ》き飛ばし、叔父と会えなくしたのだ。信じられるかい? テクノロジー全盛でこれだけ世界が狭くなっている時代に、たった数時間の場所に行けないことを。僕は北朝鮮の大地に居座って、えばり腐ってる連中を許さないだろう。絶対に。  タクシーはラッシュを抜け、快調に走り始めた。 「東吉は絵がうまくてな……」オヤジが急に、ポツリという感じで話し始めた。「戦争が終わってすぐの頃、俺の家族は大阪から岡山の漁港の近くに移り住んだんだ。短いあいだだったから、その漁港がどこだったかはっきりと覚えてないんだけどな……。俺は学校には行かないで、毎日漁港に行って、漁船から魚の入った籠《かご》を下ろすとか、船の中を掃除するとか、そういう簡単な仕事をさせてもらって、晩のおかずを調達してた。アボジ(とうちゃん)とオモニ(かあちゃん)は山口のほうにいい仕事があるって出稼ぎに行ってたから、俺が東吉のことを養わなくちゃいけなかったんだ。東吉は俺の仕事が終わるまで、いつも独りで漁港の堤防の上に炭で落書きをして遊んでたよ。俺はあいつが堤防から海に落ちないかって心配で仕方がなかった。あいつ、絵を描くのに熱中すると、まわりが見えなくなっちまうんだよな……。ある日、漁港の組合長が東吉の絵を見て気に入ってくれて、自分の漁船の舳先《へさき》にペンキで絵を描かせたんだ。水平線から太陽が昇ってる絵だ。綺麗《きれい》に描けて、組合長も満足そうだった。絵を描いて三日後、組合長の船が沖合で嵐に遭った。船は夜になっても戻ってこなくて、みんな、もうダメだろう、なんて思ってたんだが、翌朝、船はちゃんと戻ってきた。そのことがあってから、組合長の船が戻ってこられたのは、東吉の絵のおかげだって噂が広まって、自分の船に東吉に絵を描かせる人が増えたんだ。漁師ってのはけっこう縁起《えんぎ》をかつぐんだよな。東吉はあっという間に売れっ子画家になって、次第に俺が養われるようになっちまったよ。あいつ、俺が一度ももらったことないカニなんてもらったんだ。俺はあいつのことが誇らしかったよ。俺がカニを食ったのは、その時が初めてだった。東吉もそうだ。恥ずかしい話だけど、俺とあいつはカニを食いながら、泣いたよ。うまいうまい、って言ってな……。あいつ、北でカニ食ったことあったのかなあ……。カニ送ってやればよかったなあ……」  いい話だった。オヤジの目には涙が浮かんでいた。本当なら、ここで僕がオヤジの肩なんかを抱き、「元気出せよ」なんて言って、感極まったオヤジが僕を抱き締めたりするのが最高の展開なんだろうけれど、そうはいくもんか。これまで、僕はこのクソオヤジにさんざん痛い目に遭っていた。僕が中二の春、原チャリをパクって、当然ながら無免許で、とどめに三人乗りをしているところを、警察に捕まった。僕はそれまでも色々と悪さをして捕まっていたので、その時ばかりは微罪処分の説諭《せつゆ》だけでは済まず、家裁送りになる可能性があった。警察に呼ばれ、署にやってきたオヤジは、「うちの子が申し訳ないことを」と言って警察に微罪処分を懇願《こんがん》した、わけがなく、僕と顔を合わせた瞬間、いきなり体重の乗った右フックを僕のこめかみ、ボクシング用語で言う、「テンプル」に叩き込んだ。半分意識を失っている僕の肝臓に左のボディ・フックが入り、次の瞬間には返しの左フックが顔面に入った。ボクシング用語で言う、「左のダブル」というやつだ。ボディ・フックのせいで嘔吐《おうと》が始まり、左フックのせいで、奥歯が折れた。吐き出した胃液の中に奥歯が交じっていた。オヤジは、床に崩れ落ちてゲロゲロ吐いている僕の胸倉を掴《つか》んで引き起こしたあと、今度は至近距離からの右ストレートを僕の顎先《あごさき》、ボクシング用語で言う、「チン」に叩き込んだ。そこから先のことはよく覚えていない。ただ、頭の奥のほうで、僕を取り調べていた刑事の、「もう許してあげてくださいっ! 死んじゃいますっ!」という懇願の声を聞いたのは覚えている。意識を取り戻すと、オヤジが運転する車の後部座席に横たわっていた。どうにか上半身を起こすと、バックミラーに映るオヤジの満面の笑顔が見えた。 「へへへ、バツがつかなくて済んだぞ。感謝しろよ」  僕はその時、誓った。  いつか俺がこの手で殺してやる——。  そんなわけで、僕とオヤジには「最高の展開」など似合わないし、必要ないのだ。それに、オヤジは僕がぶちのめすまで、どんなことがあっても、誰に対しても、膝《ひざ》を屈してはいけないのだ。たとえ、国家権力に仕事を奪われようが、最愛の弟が死のうが、弱音を吐いてはダメなのだ。一度もダウンをしたことのない男を、初めてダウンさせるのは、この僕なのだ。だから、僕は言った。 「なにがカニだよ。貧乏くせえこと言ってんじゃねえよ。もうそういうので泣ける時代は終わったんだよ。あんたたち一世二世が貧乏くせえから、俺たちの世代がいまいち垢《あか》抜けられねえんだ」  オヤジは目に涙を浮かべたまま、驚いた顔で僕のことを見た。僕は続けた。 「北の連中もカニが食いたかったら、革命を起こしゃいいんだ。なにやってんだよ、あいつら」  オヤジの目から涙が引き始めた。僕はさらに続けた。 「叔父さん、きっと恨んでたぞ。自分が苦しんでんのに、あんたはハワイにゴルフだからな。今夜あたり枕元に化けて出るんじゃねえのか、アロハってよ」  オヤジの全身から、手で掴めるような酒気が漂ってきた。一気に毛穴が開いたのだろう。顔がさっきとは違う赤色に染まっている。僕はとどめを刺した。 「とにかく、もうあんたたちの時代は終わりなんだよ。貧乏くせえ時代は終わりなんだよ」  オヤジは酒気と殺気が混ざった雰囲気を全身から発していた。オヤジが何かを言おうと口を開きかけた時、快調に走っていたタクシーが急ブレーキを踏みながら、車道の脇に停まった。完全に車体を停めたあと、年配の運ちゃんが僕たちのほうを振り向いた。顔が真っ赤だった。運ちゃんが僕に向かって、怒鳴った。 「親に向かって、なんて口きくんだ!」  どうもタクシーの運ちゃんとは万国共通で相性が合わないらしい。  オヤジが口を開いた。 「おまえ、お勉強のし過ぎで頭がイカレちまったらしいな」  僕は答えた。 「うるせえよ、小卒のパンチドランカー」  オヤジはひとつ息を大きく吸って、運ちゃんに言った。 「ちょっと待っててください。外でカタつけてきますから」  僕とオヤジはタクシーから降り、まわりを見回した。歩道の先のほうに、公園の入り口が見えた。僕とオヤジは無言でそこに向かって歩いた。後ろからタクシーの運ちゃんがついてきていた。  公園はけっこう広く、入ってすぐに円形の広場があって、円のまわりをいくつものベンチが囲んでいた。いくつかのベンチで若いカップル連中が乳繰《ちちく》り合っているのが見えた。僕とオヤジは円のほぼ真ん中に行き、二メートルほどの距離を置いて、向かい合った。ハロゲンライトがスポットライトのように、僕とオヤジを照らしている。運ちゃんがまるでレフェリーのように、僕とオヤジを結ぶ直線上から少し離れたあたりに立っている。一瞬、オフクロの顔が思い浮かんだ。オフクロは常々僕にこう言っていた。「あの人に手を出したら、あんたを殺してわたしも死ぬ」。オフクロの中で生き残っている、唯一の儒教スピリットだった。でも、ここで引くわけにはいかなかった。どうしても。  僕は覚悟を決めた。僕はオヤジに気づかれないように息を吸い込み、腹に溜《た》めた。オヤジが口を開き、小馬鹿にした口ぶりで、言った。 「かかってこいよ、ルーク——」  うるせえ。  僕は膝を軽く折って体を下に沈めたあと、つま先を使って両足を思い切り前に蹴《け》り出し、オヤジの懐に飛び込んでいった。人間の動体視力は横の動きには反応しやすいのだけれど、上下の動きにはうまく反応できない。普通の人間なら、下方から襲ってくる僕の動きに恐慌を来たし、ガードも取れずに一発でKOされてしまうのだが、さすがに元日本ランカーのオヤジは違った。オヤジは咄嗟《とつさ》に顔の前に腕を立てて、盾のようなガードを固めた。  瞬時に顔面への攻撃を諦《あきら》めた僕は、飛び込んでいった勢いそのままに、左のボディ・フックをオヤジの肝臓に入れた。手応《てごた》えはあった。普通の人間なら、上げていたガードを条件反射的に下げてボディをかばってしまい、返しの左フックを顔面に浴びてしまう。でも、オヤジはガードを決して顔の前から下ろそうとしない。今度は右のフックを左の脇腹に入れて、試してみた。グッ、という呻《うめ》き声は吐いたものの、ガードは顔の前からぴくりとも動かない。ボクシングを習い始めの頃、オヤジはよくこう言っていた。 「ボディにパンチを食らって倒れるような奴は、ダメだ。一流にはなれない。だから、死ぬほどボディを鍛えろ。ボディでパンチを受けて、相手の力を奪い取ってやるんだ。その代わり、頭はしっかり守れ。体がボロボロになっても、頭がはっきりしてるかぎり、チャンスはある。絶対にな」  オヤジに反撃の隙を与えないように、立て続けにボディにパンチを入れた。それにしても、固い。ものすごく固い。あと何年かで還暦を迎える男の体とは思えなかった。こいつはいったい何者なんだ? 何を食ったら、こんな体を作れるんだ?  しびれを切らせた僕は、ガードの脇をついて、顔の側面にパンチを入れ始めた。耳のすぐ後ろの部分、ボクシング用語で言う、「アンダー・ジ・イアー」を狙って、左右のフックを繰り出した。ここにうまくヒットすると、三半規管が麻痺《まひ》してバランス感覚を失い、ダウンしやすくなるのだ。何発かうまい具合に当たり、オヤジの膝が少しずつ揺れ始めた。ぴったりと顔の前をガードしていた両腕が、打たれている部分をかばおうと、徐々に横に開き気味になってきている。もう少し「アンダー・ジ・イアー」を攻めれば、完全に腕が横に広がって顔の前がポッカリと開き、鼻面《はなづら》にパンチを入れることができるだろう。そうすれば、僕の勝ちだ。初めて膝を地面につけさせてやる。  僕は、開け開け、と念じながら、フックを繰り出し続けた。ガードが十センチほど広がり、その隙間からオヤジの鼻と唇が見えた。鼻はいつも通りの鼻だった。問題は唇だった。オヤジは下唇を口の中に巻き込み、歯でしっかりと噛《か》み締めていた。痛みを堪《こら》えるためにしている感じではなかった。ふいに、チューチューという何かを吸い込んでいる音が聞こえた。オヤジは下唇を噛み締めながら、同時に何かを吸い込んでいた。オヤジの意図に気づいた時には、もう遅かった。  オヤジのガードが、一気にパッと開いた。それまで見えていなかった両目がハロゲンライトの光線を反射し、キラリと光った瞬間、オヤジの口から血が噴き出された。オヤジの目の光に見とれていたせいで、目を閉じるのが遅れた。勝負は常に一瞬で決まる。血が目に飛び込み、僕は視界を失った。  顔面へのパンチを立て続けに三発食らった。コンクリートの塊がぶつかってきたような衝撃で、背骨のきしむ音がかすかに聞こえた。二発目のパンチで、前歯が一本折れたのが分かった。慌てて、顔の前でガードを固めた。左右の脇腹に、重いパンチが入った。ガードを下げてしまった。左の「アンダー・ジ・イアー」にフックを食らった。目を閉じたままの僕の目の前に、一瞬青白い炎のようなものが浮かび上がり、消えた。そして、次の瞬間には地面に崩れ落ちていた。背中をぴったりと地面につけ、横たわった。地球がグラグラと揺れている。酔ってしまいそうだ。誰か地球を止めてくれ。オヤジの声が上から降ってきた。地球が止まった。 「ガードを下げるバカがいるか」  僕は口の中に溜まっていた血を吐き出したあと、どうにか言葉を搾《しぼ》り出した。 「汚ねえぞ……」  オヤジの容赦のない声が体を打った。 「悪いな。|俺たち《ヽヽヽ》はこうやってどうにかこうにか勝ちを拾ってきたんだ。いまさらやり方を変えるわけにはいかねえんだよ」  声がするほうを見ようと、手で目をこすった。血は、オヤジの血は、なかなか目の中から消えなかった。それでも網膜に貼りついた赤を通して、声がしたほうを見た。見上げていたせいもあったろうけれど、オヤジが途轍《とてつ》もなく大きく見えた。運ちゃんがオヤジに近寄り、オヤジの右腕を掴んで、上に持ち上げた。まわりからいっせいに拍手が起こった。ヒューヒュー、という口笛まで聞こえてくる。オヤジは運ちゃんやカップル連中の祝福を受け、照れ臭そうに笑っていた。目が痛くなったので、目を閉じた。自然に涙が出てきた。何度か目をしばたき、血の交じった涙を目の中から搾り出した。拍手や歓声が、止まない。  ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……。  公園の水飲み場で血を洗い流したあと、タクシーに乗った。  僕は手のひらの上に載っている前歯のかけらを、ぼんやり眺めていた。公園で顔を洗っている最中に、運ちゃんが、はいこれ、と拾ってきてくれたのだ。舌先で、折れた左の前歯の形をなぞってみた。神経が露出しているのか、息をするたびにスースーして、癇《かん》に障る。窓を半分ぐらい下ろして前歯を外に放り投げた時、オヤジがポツリと言った。 「確かに、おまえの言う通りかもしれないな」 「なにが?」と僕は言った。 「もう俺たちの時代じゃないってことだよ」  僕はオヤジの横顔を見た。下顎あたりの痣《あざ》が、さっきまでの赤から青に変わり始めていた。下唇にくっきりとした歯形が残り、小さなかさぶたが所々にポツポツといった感じで浮いていた。 「この国もだんだん変わり始めてる。これからもっと変わって行くはずだ。在日だとか日本人だとか、そういうのは関係なくなっていくよ、きっと。だから、おまえたちの世代は、どんどん外に目を向けて生きてくべきだ」 「そうかな?」と僕は真剣に訊いた。「ほんとに変わるかな?」  オヤジはなんの根拠があるのか、はっきりと頷いた。顔には自信満々の笑みが広がっていた。根拠? そんなもの必要ない。思うことが大事なのだ。きっと。 「仕事のほう、大丈夫?」と僕は訊いた。 「おうよ」とオヤジは勢い良く、言った。「まだ一軒残ってるからな。まあ、もともと長くやるつもりで始めた商売じゃないし、おまえに継がせるつもりもなかったから、最後はゼロになればちょうどいいんじゃないか。俺とあいつが幸せな老後を過ごせるぐらいの貯《たくわ》えはあるしな。そんなわけで、おまえの面倒は見ないぞ」  オヤジは、カッカッカッ、と楽しそうな笑い声を上げた。このクソオヤジは小学校しか出てないくせに、独学でマルクスやニーチェを読めるようになった。鉄筋コンクリートのような体と、氷のように冴《さ》えた頭脳で闘い続け、このタフな国で生き抜いてきた。僕はこのクソオヤジが、どうして急に韓国籍に変えたのかを分かっていた。ハワイのためじゃない。僕のためだ。僕の足にはまっている足枷《あしかせ》を、ひとつでも外そうと思ったのだ。このクソオヤジが、どうして玄関先に、キスをされてダブル・ピースをしている恥ずかしい写真を飾ったのか、僕には分かっていた。総連にも民団にも背を向けることで、ほとんどすべての友人を失くし、家に訪れる人がなくなるのを知っていたからだ。孤立無援で闘い続けている、このクソオヤジにねぎらいの言葉をかけてやる人間は、この国にはほとんど存在しない。だから、僕が言ってやることにした。 「いつか、俺が国境線を消してやるよ」  オヤジは僕の言葉に目を丸くしたあと、不敵な笑みを口元に浮かべ、言った。 「これまで言ってなかったけどな、うちの家系は李朝から続く由緒正しい大ボラ吹きの家系なんだ」  僕とオヤジが、顔を見合わせ、へらへらと笑った時、タクシーが、うちの近所の住宅街にまで辿《たど》り着き、ある交差点で信号に捉まって、停まった。下ろしっぱなしだった窓を通して、季節外れの風鈴の音が、遠くからかすかに聞こえてきた。  チリンチリン、チリンチリン……。  オヤジは赤ん坊のようにふくよかに微笑み、懐かしい音だなあ、と言った。僕は、韓国に風鈴を吊《つ》るす習慣があるかどうか、知らない。そして、たぶん、オヤジも。  家に着いた。タクシーの運ちゃんは、どうしても料金を受け取ろうとしなかった。 「本当にいいものを見せてもらったんで……。そのお金で亡くなった弟さんに、お花でも送ってあげてください」  家には明かりが点《つ》いていた。最悪の展開だった。覚悟を決めて家に入って行くと、玄関先で僕たちを出迎えたオフクロの顔が瞬時に変わった。オフクロは僕とオヤジのそばをダッシュで擦り抜け、ドアから外に出た。十秒後ぐらいに戻ってきたオフクロの手には、竹ぼうきが握られていた。僕は竹ぼうきの柄で全身を三十八発殴られた。そばに立って見ていたオヤジは、これが愛の力だ、思い知ったか! と言い、豪快に笑った。オヤジも三発殴られた。  打ち身で発熱した僕は、学校を三日間休むことになった。  昼休み。  教室には不穏な空気が漂っていた。  二時限目の国語の授業の時、教師に指されて質問の答えを口にした時、前歯が折れていることがみんなにバレてしまったのだ。今日は挑戦者が大挙して押し寄せるかもしれない。  教室の前のドアが開いた。ギャラリーの視線がいっせいにそちらに向く。ギャラリーはがっかりしたように息をつき、仲間たちとのお喋《しやべ》りに戻った。  宮本はこの前と同じように、僕の前の席に座った。 「考えてくれたかい?」と宮本は訊いた。 「俺はつるまねえよ」と僕は言った。  宮本は短いため息をついて、言った。 「もしよかったら、理由を聞かせてもらえるかな。今後の参考にするから」  僕は少し迷ったあと、言った。 「おまえがやろうとしてることがどうのこうのって問題じゃないんだ。正しいことだと思うし、意義のあることだとも思う。でも、俺は誰ともつるまないで、おまえたちと同じことをやりたいと思ってるんだ」  宮本は皮肉な笑みを浮かべた。 「君は現実主義者だと思ってたよ」  僕は鼻で笑った。 「俺はバリバリの現実主義者だよ。おまえと見てるものが違うだけだ」  宮本は相変わらず皮肉な笑みを浮かべながら、言った。 「独りでできるものならやってみればいい。でも、気づいたらこの国にぺしゃんこにされてた、ってことにならないようにね」  僕は短いあいだ、黙って宮本の顔を見つめたあと、言った。 「おまえと喧嘩はしたくないんだ。さっきも言ったように、おまえは正しいことをやろうとしてる。俺がそれに加われないってだけのことだ。俺は忙しいんだよ」  宮本の顔から皮肉な色が消えた。 「忙しいって、なにをやってるんだ?」 「倒さなくちゃいけないすげえ奴がいるんだよ。そいつを倒すために勉強しなくちゃならないし、体も鍛えなくちゃならない。とりあえずそいつを倒さなくちゃ、先に進めないんだ。でも、そいつを倒したら、俺はほとんど無敵だ。世界だって変えられる」  僕の高校に上がってからの戦績は、『二十五勝一敗』になっていた。僕は無敗の男ではなくなってしまった。そして、その一敗は途轍もなく大きな一敗だった。  宮本が、わけが分からない、といった感じで首を横に振った。それからな、と言って、僕は言葉を続けた。 「俺が国籍を変えないのは、もうこれ以上、国なんてものに新しく組み込まれたり、取り込まれたり、締めつけられたりされるのが嫌だからだ。もうこれ以上、大きなものに帰属してる、なんて感覚を抱えながら生きてくのは、まっぴらごめんなんだよ。たとえ、それが県人会みたいなもんでもな」  宮本が何かを言おうと、口を開きかけた。僕は言葉でそれを遮った。 「でもな、もしキム・ベイシンガーが俺に向かって、ねえお願い、国籍を変えて、なんて頼んだら、俺はいますぐにでも変更の申請に行くよ。俺にとって、国籍なんてそんなもんなんだ。矛盾《むじゆん》してると思うか?」  宮本は開きかけた口のまま、僕のことを厳しい目つきで見つめていたけれど、やがて、口元をほころばせ、優しい笑みを顔に作った。そして、言った。 「僕は——、俺は、カトリーヌ・ドヌーヴかな」 「古いのを出してくるな」 「うるせえ」  僕と宮本が、顔を見合わせてへらへら笑ったのと、教室の前のドアが開いたのは、ほとんど同時だった。僕は宮本に言った。 「そこをどいたほうがいいぞ」  宮本は素直に席から腰を上げたあと、手を差し出した。僕たちは強い握手を交わした。  僕は、教室の隅のほうへと避難している宮本の背中から、僕に向かってきている挑戦者に視線を移した。そして、今日はどんな決め台詞《ぜりふ》を吐こうか考えていた。オヤジから教わった、あの言葉がいいかもしれない。 「ノ・ソイ・コレアーノ、ニ・ソイ・ハポネス、ジョ・ソイ・デサライガード(俺は朝鮮人でも、日本人でもない、ただの根無し草だ)」  それに、決めた。 [#改ページ]     7  雨の多かった憂鬱《ゆううつ》な十一月が終わり、十二月に入った。  僕は真面目に受験勉強を続け、オフクロは真面目に自動車教習所に通い、オヤジは真面目にゴルフ場に通った。  十二月初旬のある日曜日、正一から借りていたものを返しに、正一の家に行った。 「正一のためにずっと持っててあげて」お母さんはそう言って、にこやかに笑いながら、続けた。「歯、どうしたの?」  色々と悩んだ末に、正一の骨を色々な国に散骨するつもりだ、とお母さんは言った。 「近いうちにね、初めて韓国に行ってみようと思ってるのよ」  僕が通訳での同行を申し出ると、お母さんは、いま必死で韓国語を勉強しているの、と言って、楽しそうに笑った。知らない言葉を習うのって、楽しいわよね。もっと早く、あの子が生きてるうちに教わっとけば良かったわ……。  帰り際、家の外まで見送りに出てくれたお母さんが、僕に言った。 「正一のこと、忘れないでやってね」  僕は、はい、と答えた。絶対に。  十二月の中旬に、オフクロからナオミさんの結婚話を聞いた。相手は店によく来ていた、外資系の商社に勤めるアメリカ人だった。僕は受験勉強の合間を縫って、お祝いを言いに店に行った。僕が、おめでとうございます、と言うと、ナオミさんは本当に嬉《うれ》しそうに微笑んで、言った。 「はるかむかしに中近東のあたりで分かれたグループの子孫たちが、日本で巡り合ったっていうわけよね。ねえ、ものすごいことだと思わない?」  僕はしっかりと頷《うなず》いた。 「欠けた前歯がとてもキュートよ」ナオミさんは僕の頬を優しく撫《な》でながら、言った。「もっともっとキュートになって、いい娘をゲットしなさいね。それで、誰よりもハッピーになりなさい」  僕は頷いて、言った。 「言葉の中に英語が増えてますよ」  ナオミさんはどういうわけか頬を赤らめ、そして、とても色っぽく微笑んだ。  十二月二十三日の夕方、元秀と池袋《いけぶくろ》駅のホームで、偶然に会った。  僕は予備校の冬期講習に向かうために山手線のホームにいて、元秀はその向かいの埼京線のホームにいた。お互いの存在に気づいたのは、ほとんど同時だった。元秀は三人の仲間たちと一緒にいた。他の仲間も僕の存在に気づいた。僕と元秀のグループは、四本分のレールを挟《はさ》んで、しばらくのあいだ対峙《たいじ》した。先に元秀たちのほうのホームに電車が滑り込んできて、元秀たちの姿を消した。それからほどなくして、僕のほうのホームにも電車が滑り込んできた。僕は電車には乗らなかった。電車が走り去り、視界が開けた。向かいのホームに、元秀たちの姿はなかった。僕はスペースが広く取ってあるホームの真ん中あたりに移動し、待った。元秀とのこれまでの対戦成績は三勝二敗で、僕がひとつだけ勝ち越していた。  一分ほど待つと、元秀の姿が僕のいるホームに現われた。他の連中の姿はなかった。僕はジッと立ったまま、元秀がそばに来るのを待った。元秀が僕の向かいに立った。元秀が眉間《みけん》に深い縦皺《たてじわ》を刻みながら、射貫《いぬ》くような視線を僕に向けた。むかしから、嫌になるぐらいに見慣れた表情だった。ちっとも恐くなんてなかった。僕は思わず、ニカッと笑ってしまった。僕の笑顔を見た元秀の顔に一瞬困惑の色がよぎったけれど、またすぐに険しい色が戻った。 「誰にやられた?」  こいつはいつもそうなのだ。仲間が傷つけられたり、なめられたりすると、自分のことなんて顧《かえり》みずに、真っ先に仕返しに向かおうとするのだ。 「うちのジジイだよ」  僕がそう言うと、元秀の顔から険しい色が薄れた。僕がもう一度ニカッという笑みを元秀に向けると、元秀は少し照れ臭そうに笑った。  元秀が歩を動かし、肩を並べるようにして、僕の隣に立った。僕たちはさっきまで元秀がいたホームに向かって立っていた。僕たちのホームに電車が入ってきて、出て行ったあと、元秀が前を見つめたまま、言った。 「原チャリをパクって、三人乗りで捕まった時のこと、おぼえてるか?」  僕も前を見たまま、頷いた。元秀は続けた。 「あん時、おまえのアボジ(オヤジ)が|警察署《ポリ小屋》に乗り込んできて、おまえをボコボコにした姿は、俺は一生忘れねえよ。俺、自分もやられると思って、死んだふりしようかと思ったもんな」 「うちのジジイはクマかよ」 「ただのクマじゃねえ。ヒグマだよ」  僕たちは相変わらず前を見たまま、短い笑い声を上げた。元秀がポツリとつぶやいた。 「おまえのアボジ、カッコいいよな……」  元秀のアボジの口癖は、「俺が日本人に生まれてたら、総理大臣か社長になってた」で、勤めている工場で嫌なことがあると、酔っ払って元秀を殴った。元秀の左の肩甲骨《けんこうこつ》とへその右横と右のお尻《しり》と左のふとももと右足の甲には、アボジに火のついた蚊取り線香を押しつけられた火傷《やけど》の痕《あと》が残っている。そんなわけで、元秀は五回家出をし、僕はそれらすべてにつきあった。初めての家出は小学校三年の時で、東京駅から東海道線に乗り、|茅ヶ崎《ちがさき》まで行った。次は小田原《おだわら》、次は熱海《あたみ》、次は静岡、と家出のたびに距離を伸ばしていき、最後は名古屋まで行って、『パチンコ長者』になった。家出は楽しかった。その分、東京に戻ってきて別れる時が辛《つら》く、僕たちは仕方なく、「おまえの眉毛《まゆげ》が気に入らねえ」とか、「おまえの箸《はし》の持ち方が気に入らねえ」とか難癖《なんくせ》をつけて、殴り合いの喧嘩《けんか》をした。その戦績が三勝二敗だった。僕たちは、「おまえとなんか二度と遊ぶか」と言って別れ、その翌日には何事もなかったかのようにつるんで遊んだ。僕は元秀のことが大好きだった。  電車が二本、入っては出て行った。元秀が言った。 「おまえ、葬式の時に、俺が正一とほとんど話したことないとか言ってたろ。それは、違うぞ。俺、正一とはよく話してたんだ。俺はおまえたちとは違ってボンクラだから、難しい話をしたわけじゃねえけど。……俺、正一からよくおまえの話を聞いてたんだ」  僕は元秀の横顔に視線をやった。元秀は相変わらず前を見つめたままだった。僕は視線を前に戻した。また、電車が二本、入っては出て行った。僕たちのまわりを、無数の乗客たちが通り過ぎていく。僕たちは微動だにしないで、ホームに立ち尽くしていた。元秀が言った。 「俺もちゃんと分かってるんだぜ。北とか総連の連中が俺たちを利用することしか考えてなくて、ちっともあてにならないなんてことは。でも、俺はこっち側でがんばるつもりだ。こっち側には俺を頼りにしてくれてる連中がけっこういるからな。そいつらのためにがんばってるあいだだけは、俺はハンパな野郎じゃなくなるんだ」 「……ああ、分かってるよ」  電車が二本。元秀が言った。 「おまえ、高校の連中と、いつもどんなこと話してんだよ?」 「……あんまり話をしたことがねえんだ」 「友達はいるのかよ?」 「……いねえ」 「……そうか」  電車が二本。元秀が言った。 「将来、お互いにしょぼいジジイになるまで生きてたら、そん時は温泉にでも行こうぜ」 「いや、もっと遠くに行こうぜ。ハワイに行こう」 「ハワイか……。いいな」  電車が二本。元秀が言った。 「『肝試し』の時のおまえ、カッコよかったぞ」 「……ああ」  電車が一本。元秀が言った。 「もう行けよ」 「……ああ」  電車が一本。元秀が言った。 「行けよ。葬式の時の一発は貸しにしといてやるからよ」 「うるせえ、俺の勝手だろ」  電車が一本。元秀が言った。 「行けよ、ぶん殴るぞ。俺はおまえの生き方が気に入らねえんだ」  久し振りに顔に視線を感じた。僕は元秀に視線を向けた。元秀は泣き笑いのような表情を顔に浮かべながら、僕を見つめていた。  ——なあ、教えてくれよ。俺はいま、どんな顔をしてる? 自分じゃ分かんねえんだ……。  新しい電車が来た。僕は一歩だけ足を動かしたあと、どうにか言葉を搾り出した。 「むちゃして死んだりするなよ」  元秀は泣き笑いのような表情を浮かべたまま、僕のパンチを何度も跳ね返した頑丈な顎《あご》をクイッと上げ、啖呵《たんか》を切るように、言った。 「俺様が、そう簡単に死ぬかよ」  電車がホームに滑り込み、やがて停まった。僕は軽く手を上げて、じゃあな、と元秀に言い、歩を進めた。背中にひどく懐かしい感じの視線が貼りついていた。電車に乗り込んだ。背後でドアが閉まっても、まだ懐かしい視線が僕の背中に注がれているのが分かった。僕は電車が完全にホームから走り去るまで、一度も、振り返らなかった。  クリスマス・イブ。  朝から部屋にこもって受験勉強をしていると、オヤジが部屋に顔を出し、ふふふ、と嫌味に笑った。 「うるせえよ」  オヤジはドアを閉めたあと、これみよがしに歌い始めた。   きっと君は来ない〜   独りきりのクリスマス・イブ   サイレン・ナイ〜、ホ〜リ〜・ナイ〜  どうやら息子をけなすために、わざわざ覚えたらしい。クソオヤジめ。  夜、電話が鳴った。おーい! という声が下から聞こえてきた。オヤジとオフクロはチェスをしている時、絶対に電話には出ない。仕方なく勉強の手を休め、子機を手に取った。桜井からだった。 「久し振りね」と桜井は言った。  僕は返事をためらった。 「元気?」と桜井は訊《き》いた。  僕は黙っていた。桜井はかまわず続けた。 「わたしは元気よ」  短い沈黙のあと、思い切ったような桜井の声が届いた。 「あの小学校、おぼえてるでしょ? いまからあそこに来て。来てくれるまでずーっと待ってるから」  電話が切れた。僕は子機のスイッチを切り、ベッドの上に仰向《あおむ》けに寝転がった。五分ぐらいあれこれ考えたけれど、結論は初めから決まっていた。僕はベッドから降り、着替えを始めた。白の長袖《ながそで》Tシャツを着て、ジーンズをはいたあと、黒のダウンジャケットを上に着込んだ。机の引き出しの中から、残り少なくなった香典を取り出し、ジーンズのヒップ・ポケットにねじ込んだ。 「ちょっと出掛けてくる」  チェスボードの上の駒《こま》を睨《にら》んでいた二人が、同時に顔を上げ、僕を見た。オフクロが言った。 「だから、早く差し歯にしとけって言ったでしょ」  僕は、うるせえ、と言いながら、居間をあとにし、玄関に向かった。靴を履いている僕の耳に、オヤジのビング・クロスビーばりの歌声が聞こえてきた。   サ〜イレン・ナ〜イ、ホ〜リ〜・ナ〜イ   オ〜ル・イズ・カ〜ム、オ〜ル・イズ・ブラ〜イト  おまえはマルクス主義者だろうが。  家を出た。  一時間半ほどかかって、小学校のレール式の鉄扉の前に辿《たど》り着いた。  鉄扉を飛び越え、校内に入った。校庭の中を見回した。桜井は偉い人の胸像の横のベンチに、暗闇にぽっかりと白く浮かび上がりながら、座っていた。僕はゆっくりと近づいて行った。桜井は青のタートルネック・セーターの上に、白のダッフル・コートを着ていた。とてもよく似合っていた。耳ぐらいまで伸びた髪を左から横に分け、耳の後ろに流していた。理知的なおでこがきちんと見える。僕は桜井のおでこが好きだった。  僕は桜井の目の前に立ち、歩を止めた。桜井の顔に緊張の色が落ちていた。僕は黙って桜井を見下ろしていた。桜井はぎこちなく微笑み、言った。 「ありがとう、来てくれて」  僕は沈黙を続けた。 「待ってるあいだ、ずーっと空を見上げてた。月が雲に隠れるたびに、雪が降ったらどうしよう、なんて思ってた。今日、天気予報で雨か雪が降るかもって言ってたから。最悪よね、雪のクリスマス・イブなんて。雪のクリスマス・イブに男の子と会うなんて、恥ずかしくて死んじゃうわ。その前に寒くて死んじゃいそうだったけど……」  桜井が大きなため息をついた。白い息が浮かんで、消えた。桜井は顔から笑みを消し、言った。 「杉原と会わないあいだ、わたしなりに色々考えて、たくさんの本を読んで、難しい本もたくさん読んで——」  僕は桜井の前にしゃがみ込んだ。僕の急な動きに、桜井の口から言葉の代わりに、浅い息が漏れた。顔がひどく緊張している。僕は桜井の顔を睨みつけるように見上げながら、言った。 「俺は何者だ?」 「え?」 「俺は何者だ?」  桜井は少し迷った末に、答えた。 「……在日韓国人」  僕は立ち上がり、胸像の台座の部分を思い切り三回|蹴《け》ったあと、桜井に向き直って、言った。 「俺はおまえら日本人のことを、時々どいつもこいつもぶっ殺してやりたくなるよ。おまえら、どうしてなんの疑問もなく俺のことを≪在日≫だなんて呼びやがるんだ? 俺はこの国で生まれてこの国で育ってるんだぞ。在日米軍とか在日イラン人みたいに外から来てる連中と同じ呼び方するんじゃねえよ。≪在日≫って呼ぶってことは、おまえら、俺がいつかこの国から出てくよそ者って言ってるようなもんなんだぞ。分かってんのかよ。そんなこと一度でも考えたことあんのかよ」  桜井は息を呑《の》んで、僕のことをジッと見つめていた。僕は桜井の目の前にひざまずき、そして、言った。 「別にいいよ、おまえらが俺のことを≪在日≫って呼びたきゃそう呼べよ。おまえら、俺が恐いんだろ? 何かに分類して、名前をつけなきゃ安心できないんだろ? でも、俺は認めねえぞ。俺はな、≪ライオン≫みたいなもんなんだよ。≪ライオン≫は自分のことを≪ライオン≫だなんて思ってねえんだ。おまえらが勝手に名前をつけて、≪ライオン≫のことを知った気になってるだけなんだ。それで調子に乗って、名前を呼びながら近づいてきてみろよ、おまえらの頸《けい》動脈に飛びついて、噛《か》み殺してやるからな。分かってんのかよ、おまえら、俺を≪在日≫って呼び続けるかぎり、いつまでも噛み殺される側なんだぞ。悔しくねえのかよ。言っとくけどな、俺は≪在日≫でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺を狭いところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。俺は俺であることからも解放されたいんだ。俺は俺であることを忘れさせてくれるものを探して、どこにでも行ってやるぞ。この国にそれがなけりゃ、おまえらの望み通りこの国から出てってやるよ。おまえらにはそんなことできねえだろ? おまえらは国家とか土地とか肩書きとか因襲《いんしゆう》とか伝統とか文化とかに縛られたまま、死んでいくんだ。ざまあみろ。俺はそんなもの初めから持ってねえから、どこにだって行けるぞ。いつだって行けるぞ。悔しいだろ? 悔しくねえのかよ……。ちくしょう、俺はなんでこんなこと言ってんだ? ちくしょう、ちくしょう……」  桜井の両手が僕の頬に伸びてきて、ぴったりと触れた。桜井の手はとても暖かかった。 「その目……」と桜井はかすかに微笑み、震える声で言った。 「……目?」と僕は問い返した。  桜井は頷いたあと、笑みを深めて、続けた。 「去年の九月のことなんだけど、わたし、返ってきた模試の成績が悪くて、いつもみたいに、なんでこんなことで落ち込むんだろう、バカみたい、って分かってながらも落ち込んじゃってたの。それは雨の日の放課後で、なんだか家に帰りたくないなあ、って思いながら、体育館のそばを通ったら、バスケットの全国大会の予選リーグがうちの高校の体育館で開かれてて、ちょうど試合をやってたとこだったの。わたし、バスケのことなんてよく分かんないし、興味もなかったんだけど、どういうわけかその時はね、タンタンタン、ていうバスケット・ボールが床にあたる音に惹《ひ》かれて、体育館の中にフラフラって入って行っちゃった。それでね、観客席に座って、初めのうちはぼんやり試合を観てたんだけど、だんだんプレイしてるある男の子の動きばっかりを目で追うようになったの。その男の子の動きはすごくしなやかで、まるできちんと振りつけされてるダンスみたいだった。すごいな、自分もあんな風に動けたらいいな、って思いながら、その男の子のことを見てたらね、その男の子が突然、持ってたボールを、自分をマークしてた相手の選手の顔に投げつけたの。たぶん、その男の子は相手の選手にひどいファウルをされたか、ひどい言葉を言われたのね。わたし、突然のことだったから、すごくびっくりしちゃった。コートの中も一瞬静まり返ったんだけど、すぐにボールをぶつけられた選手の味方の選手が、その男の子に、てめえ! って言いながら殴りかかっていったのね。そしたら、その男の子、向かってくるその選手に、ものすごく打点が高いドロップ・キックをやったの。わたし、ドロップ・キックなんてテレビでプロレスラーがやってるのしか見たことなかったから、生で見れてすごく感動しちゃった。それでね、一発だけでもすっごく感動しちゃったのに、その男の子、次々に向かってくる相手に連続して何度もドロップ・キックをやったのよ。そのあいだは、着地してる時間より、宙にいる時間のほうが長かったんじゃないかな。わたし、もう感動とかそういうことを感じるどころじゃなくなっちゃって、ただただその男の子の動きに見とれてた。だって、その男の子の動き、ほんとにすごかったんだもの。その男の子のまわりだけ重力がないの、まるっきり。その男の子、自然の法則を超えちゃったのよ。気がついたら、コートの中にいた相手の選手たちは鼻血を出したりしながら、みんな床の上に倒れてた。そんな風になってようやく審判たちがその男の子のことを取り押さえようとして、その男の子に近づいて行ったんだけど、その男の子、すっごく興奮してたみたいで、審判にもドロップ・キックをやり始めたの。わたし、そこらへんから、もうおかしくておかしくて、クスクス笑ってたのね。そしたら、その男の子のチームのコーチが、ベンチに座ってた選手たちに向かって、行けっ! 杉原を取り押さえろ! って命令した。わたし、ダメ! つかまらないで! って心の中で叫んだんだけど、ダメだった。杉原は二人目の審判にドロップ・キックをし終わって着地した瞬間に、チーム・メイトにつかまっちゃったの。でも、しばらくのあいだ、杉原は必死に抵抗してた。離せ! 離せ! って叫びながら。チーム・メイトは仕方ないって感じで、杉原を床の上にどうにか倒したあと、杉原の上に乗っかった。確か、四人が乗ってたから、小さな山みたいになってた。わたし、ああ、つかまっちゃった、ってすごく残念で、バカみたいだけど、悔しくて涙が出そうになったのね。でもね、すぐに涙が引っ込んだ。だって、小さな山が、ビクンビクン、て動いてるのよ。四人も乗っかってるのに、ビクンビクン、て。わたし、こらえきれなくて、観客席に横になりながら、お腹を抱えて笑っちゃった。あんまり笑いすぎて、引っ込んだ涙がまた出てきたぐらい。どうにか笑いがおさまって、コートを見たらね、杉原は何人かの先輩たちにビンタをされてて、そのあと、コーチにユニフォームの背中の部分をつかまれて、コートから控え室のほうに連れていかれることになってた。その姿がまた面白かったのね。だって、いたずらばっかりする子猫が、飼い主に背中をつかまれて、外に放り出されるみたいだったんだもの。コーチと杉原は、わたしが座ってたほうに歩いてきてた。わたし、相変わらずクスクス笑いながら、身を乗り出すようにして杉原のこと見てたのね。そしたら、杉原がわたしのことに気づいて、ものすごい目でわたしを睨《にら》んだの。わたし、勘違いしてた。杉原は子猫じゃなくて、ライオンだったんだよね。それでね、わたし、杉原に睨まれた時、背筋がぞくっとして、体の中心がもぞもぞする感じがあって、気がついたら、濡《ぬ》れてたの……。わたし、そういうの初めてだった……。それまで、男の子にキスされたり、体を触られたりしても、濡れたことなかったのに、睨まれただけでそうなっちゃった……。わたし、その日、ずーっと正門の前で杉原が出てくるのを待ったんだけど、裏門から帰っちゃったみたいで、会えなかった。その日からずーっとわたしの頭の中には、『杉原』っていう名前と、杉原の高校の名前があった。何度か高校まで訪ねて行こうと思ったこともあったんだけど、そんなことこれまでしたことなかったから勇気が出なくて、友達に相談したら、そんなバカ高校の奴やめなよ、って言われて、それだけじゃなくて、あの高校に近寄ったらまわされちゃうよ、なんて恐いことも言われたから、結局行けなかった。でもね、わたし、絶対に杉原に会えるって信じてた。それはもう確信に近かった。だから、今年の四月に、わたしの隣に座ってる男の子が、パー券をむりやり売りつけられた、って言ってわたしに見せてくれて、それが杉原の高校の男の子が主催してて、杉原の高校の男の子たちがたくさん集まるって聞いた時、何があっても絶対に行こうって思って、その男の子からパー券をもらったのね。それで、会場に行ったら、やっぱり杉原に会えた……。杉原のこと、すぐに分かったよ。だって、その時もわたしのこと、睨みつけてくれたもの。わたし、あの時も濡れてたんだよ……」  頬を挟んでいる桜井の両手に力がこもった。 「わたし、いまもすっごく濡れてるよ。触ってみる?」 「ここで?」と僕はちょっとびっくりして、言った。  桜井は頷いた。僕は少し迷って、言った。 「ここじゃまずいんじゃないかな——」  ふいに顔を胸の中に引き寄せられた。後頭部とうなじに桜井の手がかかり、ギュッと抱き締められた。桜井の、ドクンドクン、という心臓の音が聞こえてきた。ドクンドクン、ドクンドクン……。なんて懐かしい音なのだろう。なんて心地いい音なのだろう。  桜井の声が頭に降ってきた。 「もう杉原が何人《なにじん》だってかまわないよ。時々、飛んでくれて、睨みつけてくれたら、日本語が喋《しやべ》れなくたってかまわないよ。だって、杉原みたいに飛んだり、睨みつけたりできる人、どこにもいないもん」 「ほんと?」と僕は桜井の胸に顔をつけたまま、訊いた。 「ほんとだよ。わたし、ようやく、そのことに気づいた。もしかしたら、杉原を見た初めから気づいてたのかもしれないけど」  桜井はそう言って、僕の頭のてっぺんにキスを三回してくれた。桜井の手の力が緩んだので、僕はゆっくりと顔を胸から離した。桜井が僕の顔を見つめて、訊いた。 「どうして泣いてるの?」 「嘘つけよ」と僕は言った。「俺は人前では泣けない男なんだ」  桜井は眩《まぶ》しいものでも見るように目を細めて微笑んだあと、また僕の頬に両手をあて、親指を優しく動かし、涙を拭《ふ》き取ってくれた。 「さっきからずーっと言おうと思ってたんだけど」と桜井は真面目な顔をして、言った。「欠けた歯がおマヌケで、とっても可愛いよ」  僕と桜井は顔を見合わせ、笑った。桜井が僕の顔から手を離し、ベンチから立ち上がった。 「また、月が隠れ始めたわ。雪が降ってくる最悪の事態の前に、どこかへ行きましょうよ」 「どこに行く?」 「どこでもいいわ。とりあえず暖かいところに行って、それで、今晩どこに泊まるか考えましょうよ」 「……いいの?」 「そういう鬱陶《うつとう》しい質問をする癖は直してね」  桜井は僕の横を擦り抜け、スキップのような足取りで正門のほうに向かった。僕はひざまずいたまま、桜井の後ろ姿を目で追っていた。桜井が足を止め、振り向いた。僕がこれまで見たことのない微笑みが、浮かんだ。そして、雪のように白い息とともに暖かい声が吐き出され、僕の耳に届いた。 「行きましょう」 [#改ページ]   主要参考文献 『驚異の小宇宙・人体㈽/遺伝子・DNA 3  ——日本人のルーツを探れ 人類の設計図』NHK「人体」プロジェクト 日本放送出版協会 『日本論の視座——列島の社会と国家』 網野善彦 小学館 『単一民族神話の起源——〈日本人〉の自画像の系譜』 小熊英二 新曜社 『人間の測りまちがい——差別の科学史』 スティーヴン・J・グールド 河出書房新社